Back to Howawan's Homepage to index to Yahoo's Homepage

sent34-01110290830/生物多様性ってウソ? ......

inhalts

sent34-01110290830@
 以下、こんどは、「生物多様性のウソ」:武田邦彦、初版、小学館新書、2011年
と言う文庫本を読んだところから考え始めたことどもではある。この本は、母里氏のインフルエンザワクチンはいらない、という文庫本と似たところがある。一見すごく深そうだが、非常に一面的なのである。日本的ではない、と言うか。。とはいえ、非常に示唆に富む本だったのでこれを中心に話してみよう。
 温暖化は生物多様性に必要。温暖化が生態系に影響を与える、というのは間違い、とその著者は言う。この意味を考えていると、以前に読んだ ピーターウォードの理論つまり、低炭素時代には生物多様性の適応放散、高酸素時代には生物種の進化が起こる、という理論を思い出した。
 この文庫本の中で一番印象に残った記述は、アメリカ五大湖のスペリオル湖のオオシカの話だ。この寒い湖にある島には、植物以外の生物が住んでいなかった。それが暖かい時期があって、オオシカが住み着いてどんどん増える。およそ3,000頭まで増えたところでひどく寒い時期にもどる。餓死の時代。しかも凍結した湖から狼が出現。すでに飢え死に寸前なので絶滅する、とだれもが思ったが、実際は、オオシカ600頭、狼20頭で安定した、という話だ。これを食物連鎖的には、太陽光と二酸化炭素で植物2,900トン。これをオオシカ45トンで、オオカミ0.8トンで平衡したと表現するらしい。
 これに関連するように、地域的な生態系の長となるライオン、オオカミなどは、間引くように捕食する話が書いてある。病気になった羊を選んで食べるオオカミの例なども書いてある。肉食のオオカミにとっても、増えるだけ増える羊の集団にとっても生態系を守るベストな方法のようだ。そういう保存の法則を越えて、しかも同種間で殺しあうのはヒトだけとも言う。その理由として、武田氏は、本能=DNAと考えているところがあり、それで、頭脳情報量がDNA情報量を越えたからという説明をしている。ちなみに脳情報量とDNA情報量がイコールなのが爬虫類とのことだ。説明としては面白いし説得力もあるけど、本能=DNAと言う初めの定義そのものが疑問だ。 
 また、別のところで生態系からみると、子どもを作ることが出来なくなった親は餌を取る必要がない=死ぬのが一番という原則があるとも語る。ただ、これも エピジェネティクス(染色体の後天的な修飾で遺伝子発現が制御されることの研究=wiki)スイッチを遺伝情報として、X染色体が増えることの観点が抜けているように思えた。さらには、人間の活動は自然その物だから人間の活動で自然が破壊される言はありえない、という結語に近い部分の考えには、どうにも何といってよいかわからない。COP10などの動きはアメリカの陰謀だと言い切っているところは真実に近いと思うが全体のテーマに対して違和感がある。 もともとアメリカや中国などは、生物資源を持つ国にもたない国が提供してもらうときは、その利益を折半というAccess and Benefit-Sharing(ABS, Anti-lock Braking Systemではない)には応じないと思うし。それは彼らの陰謀というよりは、それが国家アメリカってもんだと思う。それでも他の国の人々に比べればお友達なのは間違いないし。自然破壊なんて、ヒトとしての人間の生活行動だから、地球がそんなことで滅びるか、というたいそう「おおきな視点」(と思っているんじゃないかな)とCOP10やTPPみたいなアメリカ人のいつもの陰謀?野望?、つまり自分だけがいい思いをするようなキャンペーン性格とは、あまり関係ない気がするが。それに、この本の著者は、二酸化炭素放出の抑制なんて生物界(ヒト以外の)には大きな影響力などなく、むしろ二酸化炭素の増加こそ、生物の多様化に必要だと言っている訳だし。
 ここで、先のピーターウォードの理論にもどる。例の「酸素こそ進化に必須」の理論だ。高酸素時代には生物種の進化が進むという一つの理論については、その高酸素時代は逆に、低二酸化炭素時代(特に3億年より近いペルム紀には酸素30%越えでCO2は5%未満)だった。問題はもう一つの理屈の方だ。低酸素時代には生物の多様性の適応放散するという理論の方。低酸素の時代は4億年より前シルル紀あたりからは、高二酸化炭素の時代でもあり、武田氏の理屈とある意味で同じことだ。けれど私は、両者の理屈は相反はしてないが、考え方の根拠がまったく違うと思った。双方とも、合わないところもあるようにも思う。つまりこれらの時代よりさらに古い生物発症からカンブリア紀ぐらいまでの間だ。この間、酸素、二酸化炭素両方とも高いんだ(20%前後。だから酸素は現代と同じ)。決して「低酸素」にも「高CO2」にも見えない。この時期に有名な「カンブリア爆発」が起こっている。様々な生物が誕生している。それはマアまったくこの時代の生き物と来たら、関節のない足がたくさんあったり、針なのか足なのか分かりゃしない。オパビニアという節足動物に至っては5つも目があったりして。この時代の生き物は、なんともうまくできてないのである。そこから進化して現在の種に発展するのだから、それは仕方がないか。
 さて、2.5億年前、ペルムから三畳紀(ジュラ紀の前)に移行するとき、急に酸素が低下二酸化炭素がそれまでの数%から10%越えまで急に増加した。この時期に大きな生物の絶滅が起こっているが、テーマが酸素だから、ウォード氏は、欠く生物の肺の構造に注目する。このころの大型爬虫類は、ワニの様にくねって歩いていたようだ。右左右左。。くねると肺がちぢまったり伸びたりするから歩きながら呼吸が出来ない。その後、恐竜の時代というか、ジュラ紀の大型爬虫類は、トリと同じ気嚢をもって後ろの気嚢を縮めて肺の前の気嚢を膨らませ一方方向の気流を拡張しない肺に送り込む種もいたようだ。これなら大丈夫。トリも同じ構造の肺を持つからこの時代の爬虫類が、トリの先祖なのだろう。こういう進化があってこそ今の我々が、トリが、ワニがあるのだ。DNAとはその記録であり、経時的で種の壁を越えているから、爬虫類なら爬虫類、トリならトリという個体だけを抽出して、各々遺伝情報が各々の「種のDNA」だという理屈は成り立つと私には思えない。
 むしろ、現在の社会現象を見るとき、彼の言う「ヒト特有の情報」の方が気になる。後脳の発達とその情報の方だ。アラブの春 (2010ー2011現在)がすさまじい今日この頃。カダフィー大佐の射殺映像はなんとも。。。 この結末など、最も気になるものだ。彼を殺して一体何になるんだろう。そう思った人も多いと思う。武器すなわち力、という幻想は一体いつまで続くのだろう。。
 私自身、否が応にも開国させられ、列強たらんとした日本の民の末裔なのだが、鎖国している状態の日本人も、開国して久しい現代日本人も、たぶんは、その一人一人の資質において、彼らのようには振る舞うまい。そのことを誇りに思ったのだ。と、そう思ったと同時に、これら「荒ぶる民」の映像は、Fukushimaのとある主婦がいみじくも表現した「除染なき開放」と妙にダブるのは一体なぜだ。
 ま、それは今置いといて、アラブの話にもどると、それは、誰が考えても独裁は嫌だ。けれど、ただただ、「開放」を叫び、狂喜し、偶像を打ち壊し、踏みつける彼らの姿を見ていると、結局は、「一人しかいなかったから独裁しかなかった」と感じた。そ唯一の民をまとめる長が彼ら独裁者と言われる人たちだったのだろう。彼らが殺され、だれもいなくなった国々では、いったい誰が、その方法が良かろうと悪かろうと、彼らの民をまとめ、国という世界に示すべき共通単位の責任をとるのだろう。それは、対立なしに道は開けない事だらけだけど、対立とはすなわち相手も殺すことではない。相手を生かす対立こそ重要。ヒトという種は同じ種内での戦争(つまり内戦だなこりゃ)で滅しあう。異常だなあ確かに。ここでまた、思考の集中が途切れ、別の事を思う。他の動植物の長に君臨し、彼の著者が言うように、

  1. 天敵がいない
  2. エサが不足しても自分で作り出す 
  3. 微生物などのアタックを防御できる 
  4. コンクリートなどで地域を変化させる 
などの特徴をもつ?その我々がまた、他の生物にとって、どう独裁者でないのだろうと。
 自然を「感じる」ことが出来、同時に西欧の「文化」ってやつも理解可能な日本人。諸行無情を知り、あまりに傲慢なYes or No、と言うか all or nothing をよしとせず、権力に抵抗するわけでもない。その反面、親鸞の宗派の一向一揆みたいに、念仏を唱えて権力におもねらず暮らすことも出来る日本人。その我々の「祈りにもにた感性」こそが、この戦争やら天変地異に立ち向かう、ヒト科のみならず様々な動植物の行く末を誘う(いざなう)に必須だろうと思ったりしながら、走馬灯のように浮かぶ雑多な疑問に答えられず、悩みつきない今日この頃ではある。ナンマンダブ。ナンマンダブー。。。(111029)