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sent35-01201261955/龍の今年も重く生きるか(1201)......

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 年頭にあたって、暗いけど、「生きると言うことは本当に重い」、と思っていることを述べる。難しい時、難局というのは,個人の人生にも国家にもあるものだ。いつまで立っても終わらない中東での戦争や去年の3.11などの大災害などがその最たるものだろう。しかし、どんな戦いにも終わりがなくては、まるで救いがない。賠償の問題などのニュースを見ていると、心が寒くなる。人の死。誰かが死に、その死に負けないで生きる!という意志など持っても、自分は生きれても、無くなった方は戻ってこない。自分が日常生業とする医療も、その失敗は、人の死だ。私もいくつかその経験があるし、去年もあった。無念が怨念として後押しする、生きるものの肩に乗る、軛(くびき)の存在は、生あるうちは、忘れることが出来ない。。。いつもの明るい気持ちを、今年も持てない。
 まずは戦争。例えば、パレスチナとユダヤ国家の戦いには終わりがない。聖地が同じ異なる宗教の争いだからだ。「目には目を」を繰り返すばかりで、宇宙の果てのように、終わりというものがない。我らがウルトラマン、国家アメリカは、アラブ世界に異常に神経質で、後30秒グライしか戦えないようだ。売ったけんかを買われての9.11。弱い奴は売った喧嘩を変われてしまうと気が狂ったようになる。フセインを血祭りにあげただけで、十分だろうに、その後も黙々(でもないか)と戦いつづけ、自分のところの若い衆のみならず、一般人の犠牲者は151000人?、アフガニスタンは一般人の犠牲者はよくわからないがもう10年を越したわけで、おそらく、ものすごい数だろう。イラク戦争では一説で150000人?とも言われる。このような、日本流に言えば、まったく身に覚えのない民間人老若男女のうらみつらみで成仏出来ない仏さんが、既に100万人ぐらいは居ると思われる。ブッシュ二世の顔が最後ごろには、本当にお猿のようになったと感じたが、こどもにでも戻らないとこの怨念には耐えられないからだろう。
 まあ、このように国家アメリカは、第二次世界大戦後も自称「世界の警察官」と言うことで、朝鮮動乱、ベトナム戦争、冷戦(ソ連やキューバ)、湾岸戦争、とずっと戦い続けている。こんどはイランのようだが、そりゃあもうずーっと、ズーーっと戦っている。いったい、ここまで来ると「戦争」=人殺し、また、徐々にはっきり、回教との十字軍的は戦いに、無理やり集約されつつあるように見える。と言うよりは、傍目から見て、はっきり地獄にひきづり込まれたように見える。最近では、トリインフルの研究もその解析が終末に近づいたとたん、「テロにつかわれたら困るから、研究をやめて」と研究機関に頼みに来たとのことだが、精神の衰弱もここまでくれば、末期的ではある。
 因みに、ベトナム戦争では南北双方で450万越え?の民間人死者、ついでに第二次世界大戦では民間人の死者は400万人以上とも。ユダヤ人の虐殺が600万人、広島長崎の民間人が約30万人、朝鮮戦争では民間人は200万人とも言われる。もちろん朝鮮戦争ぐらいまでは、双方共に、軍人が民間人以上に無くなっており、いってみれば古典的派?普通の?戦争であり、痛み分けとして、アメリカも軍人がたくさん死んでいる。ついでに言えば、どの戦いでも、負ける側の多くの婦女子がレイプの犠牲になっている。つまりは、強いものが勝つ、と言えることが勝者の戦争だった。もちろん、勝者はあっても正義はない。ところが、今は違う。明かに民間人の死は、喧嘩の巻き添え、であることだ。痛ましいことだ。ワンには失礼だが、犬死にそのものである。  人の死はもちろん痛ましい。が、それ意外に私が常に気になるのが、斟酌のない史跡の破壊である。脈々と培ってきた歴史はまた、非常に重いものであろうに、よくもこれだけ、鉛弾をブッ込んで破壊できるものだと思う。鬼のような仕業ではある。
 次は震災だ。特に今度の震災については、まったく不可抗力であることが、戦争以上に痛ましい。3.11以降、経済人のなかに、未曾有の震災が人を救ってビジネスチャンスと大っぴらに申す向きもあるようだが、それでよいのだろうか。復興までは、長く、険しい道のりだ。震災は、金儲けのチャンスではなく、生活基盤の復興なのである。基本時に、魚を獲る人たちに、津波に負けない「新しい住」を提供するのは、文字どおり本末転倒的に至難の技。特に岩手県などは、3陸沖の地震など、大きな地震や津波に何度も呑まれているが、海岸にすんでいる。それが庶民の生活というものだ。海岸でなければ成立しない仕事を守りつつ、津波に呑まれない「新しい住」とは一体なんだろう。それは、チャンスなどと気軽に言えるものではなく、物作りの人々だけでなく、国民一人一人に課せられた神からの重たい宿題、おろかな人間への課題なのである。
 私も、気仙沼を去年の4月5日ごろ訪れたとき、今後の海岸の暮らしを、下記のように 提案したことがある。
->3地域に別けるという提案だ。3つの地域とは、

  1. 観光やモニュメント、記憶やゴミの廃棄地区。
  2. 要塞地区
  3. 外郭地区ー安いが金銭的にも保証もないが景色がよい +地下シェルター (避難所)
。。テレビなど見ていると、自然の高台や、人工の高台を作って、旧日本軍の逓信所があった地区みたいに、区画した生活空間を作るあんもあるが、その地下には働く場を作るという。すごいお金がかかるだろうし、地震がおこったら、地下は危ないだろう。なにせ、地表にある「地下」だし。それに、それらをセルとよぶとすると、セルに生活を集約するために、元来の地上が更地のようになれば、津波は、ものすごい速度で、内陸に及ぶだろう。わたしは、基本的に、堤防を通常の土地の周囲に万里の長城のようにめぐらすべきだと思う。問題は、景観と、外部への門を兼ねた堤防の作り方にある。高い塀に囲まれた生活はせっかくの景色をだめにする。だから津波のエネルギーに対して、地上の地震エネルギーを使用する方法を考えようと思う。文字通りカウンターパンチと言うわけだ。これもまた、目には目をではあるが。
 以上、戦争と災害について年頭に考えた。ここでもう一度、あえて同じ事を念じながら言わせてもらえば、前者も後者も、その文字通りの泥沼で、悲惨だ。無くなった方は戻ってこない。人の死に関わって、自分の生を守ることを死んだ人も喜ぶだろうというのは、あまりに楽観的だろうと私は思う。それは、まったくその人の死に直接かかわらない当事者だけの言葉であろう。ただ、自律的に個々の細胞の一生を脳は守る必然と義務を持つと言えるので、それを否定することはしない。それを否定することは死をみずから選択する事になるからだ。自分が日常生業とする医療も、その失敗は、人の死だ。無念が怨念として後押しする、生きるものの肩に乗る、軛(くびき)の存在は、自分も生あるうちは、忘れることが出来ない。  だから、「他人事」とは良く言う言い回しだが、呆れるほどにバカらしい。人が営むはずの企業そして、国、政治。とても愚かな姿である。
 小さな例であるが、わたしは、今日ヘリの練習後、機内にiPhoneを忘れた。日没を過ぎたので、日中の摂氏から一気に零度以下になり、水滴が凍った鍵を開けてはいるのに、強風にひどく凍えながら、ビニールシートで被った空間で、エンジン発電機を回し、ジェットヒーターで、鍵を温めて開けた。この時点で、三陸のような地震と津波が起こったら、我が苫小牧は、おそらく全滅。178000人のうち、何人が、幸運にも朝を迎えられるだろうと思うと、よけい震えた。毎日の光景。仕事に向かう車や、勉強机に向かう学生達、そして我々つまり小さな家族。それを一瞬のうちに地震、津波、停電が襲う。地震、津波以上に、その後の「停電」は、極寒の地では瞬間致死的なダメージであることを思った。同時に一瞬、バカ、と言う言葉はだれのためにだれが言うのか、という疑問がふっと湧いたのだ。結構行き詰まったとき、まったく場違いな事を考えるのも、極限的心因反応なのかも知れない。「他人事」って何なのだ? 東電の賠償の態度や物言い、沖縄の人々に対する担当閣僚の態度。まこと、政局というのか、政策と言うのかは、庶民の暮らしにはトンと無関係だ。ただただ、良い政治と悪い政治があるのみ。いまの日本の施政者たちに使う言葉は、ただ、下品だが、○○としか言いようがないじゃないか。寒さの中で私は心底そう思った。。きっと、彼の地の被害者の人たちも同じではないだろうか。「他人事」。
 さらに、未来の子供たちの事。広島を原故郷の人間として言う。放射能は忍び寄るもの。そしていつのまにか破壊するものだ。第二のタイタニックは、まさに人がする、と言うところで、これも洒落にもならない事件がイタリアで起こったが、こちらに関しては言う気にもなれないほど愚かだ。皆さんもご存知のことだ。
 さて、放射能の事。今のドイツは、なぜか放射能に非常に神経質だ。その行き過ぎるようなところは、いかにもドイツの人々らしい。とは言え、今度の原発事故で、始めて日本は、白人社会の唯一の友人を敵に回したような気がする。日本人特有の呑気さでだ。この問題、我々一人一人が自覚し、かつ日本人として、世界に詫びねばならないのに。それは、東電の問題だよ! と思っている人がいたら、それはそれで大変「日本人的だ」と私は思う。
 娘の中学で、来年福島に社会学習で訪れる予定と言う。父兄に意見を聞いてきたので、私はこう答えた。 『ひと月で、通常人は、1/8mSvを自然被爆するが、福島では、現在1μ〜1.3μ/時(2011の11/12の時点で、地上1mでの計測;日経新聞)だから、月換算で 1x24x30=0.72〜1mSvを被爆している。ということは、通常の8倍の被爆があると 考えられる。一方思春期の児童は、甲状腺機能が通常でも亢進する時期である。以上のデータはあくまでもγ線でのデータであり、通常に計測出来ない他の粒 子線なども放出されているのでその動向が不明である。(80km圏内で なければ大 丈夫とは思うが、地勢や気候のデータが十分ではない)。したがって、もしも今、福島原発の近くに寄ることが出来たとして、自分の娘をどうしても連れていく必要が生じたら、私は、現時点では、彼女に、あらかじめヨウ化カリウム摂取量(mg/日) 130mgの 投与が必要と判断する。来年の時点で、同様な計測から、その時点での判断をすべきだ。』
 このことからも言えるが、まったく放射能の性質を忘れての、若い人々の勇敢過ぎるボランティア行為は気をつけるべきで、「福島、原発」については、世界の声にも国内の声にも慎重で正確な対応が必要である。 だから余計に、政府や役所の対応を見ながら、官僚というのは、自己保存的であり、体に入ったヘルペスのようなものだ。共生するのか、寄生するのか彼ら次第なんだ、と思う。宿主=国民としては、弱るわけには行かない。常に備えよう皆さん。
 今日は繰り返しが多いが、ご勘弁を。自律的に個々の細胞の一生を脳は守る必然を持つとは言える、それが人間原理である、と述べた。では、理論物理学の学者が言う、物理的原理とは、重力や電気力のヒトが生きるという微妙なバランスで存在していることの無神の証明だろうか、という命題に触れる。何をひち面倒くさい事を、と思われるだろうが、これもご勘弁を。そもそも我々は、存在しているのか、生と死を分けるものは何ナノか、という事に直結していると考えるからだ。
 表も裏も全てがひも紐のようにつながり、質量のあるエネルギーと質量のないエネルギーが混交して存在するのが宇宙らしい。しかも質量のない実体のはっきりしないエネルギーが8割以上だと言う。ニュートンやアインシュタイを越えた、という現代量子力学の知見らしい。そういった本を読むと、いかにも複雑にカラミあったヤウに多様で理解不能である。(どう、このジョーク?!) おおよそ勉強と名がつくもので、生物以外には、「機械」や「電気」の物理が唯一得意だった身としては、今お前は、知能の低い猿だと言われているような、すごい進歩?ではある。ところが、彼らのポケットだらけの多様な宇宙エネルギーの地勢図も、その計算根拠は、一足す一は二、の整数だ。数学ニガテの自分が言うのは気が引けるが、じゃあ、果たして、2は1の次の整数で、3の前の整数という線形の根拠はあるのだろうか。1の2倍が2で1の3倍が3であることは、りんごを数えるように、目で見えるから真、と言うのを尺度だと言うのなら、かれらの言うことが、算数で計算できるから真とすること自体が、科学の傲慢じゃなかろうかと思ってしまうのは、猿知恵だろうか。だって、整数をノット(結び目)とすれば、その間にいくらでも小数点以下が無限に入る数字なんてものは、紐宇宙をぐーんと伸ばしてある軸をミクロまで縮めた場合の9次元つまり、見かたで1次元に見える紐宇宙そのものじゃなかろうか。ということは、某O光学の監査見たいなもので、自分で自分を証明するようなもので、一足す一は二、自体が、宇宙なんて、既に実体じゃない気がする。
 逆に、 「意思がすべて、脳がすべて」という考えについて前回書いたが、これは人間原理。物理原理と言いながら、10に-のついた40乗も50乗もしなければいけないような小さな宇宙定数(重力(や、クオークやボゾンなんかの量子間の力の総和)への反対の力?)、それに、じゃなければ、今の銀河も生命体も存在出来ないような理屈。それにもかかわらず、勝ってに膨張を続ける宇宙。エーイ!いっそ、神の存在を認め、敬虔な気持ちになった方が、世の中のためのような気がするが、これも猿だからだろうか。猿さんごめんね。人間の独り言なのでした。(120126)