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  • オリンピックとホロコースト-文明の裏と表-の巻

  • → またまた遅くなってしまった。ごめん。学会で自分とも一人が作ったプログラムを披露するための時間がおしかったからだ。それが終ると今度は高校野球とオリンピックに時間をとられた。それも終ったが、まるで開放感から馬鹿見たいに放心していたのです。
    しかし、今日は書かざるを得ない。例のロシアの事件。テロの恐ろしさ。相手が子どもだろうと誇りという名の憎しみが優先する阿修羅達。脱水と暑さの中でボロ切れのようになって重なり、命の輝く目がどんよりとして横たわる子ども達が目に浮かぶ。本当に憎しみには果てがない。無論、旧ソ連に無理矢理併合される前から様々な形で憎しみと戦闘があったろう。親子代々修羅場の中で形成されたメンタリティは到底我々に理解が出来ない。日本人にとってもう60年たったのに、日本への憎しみをあらわにする近隣の国々。それさえも理解が十分出来ない上、その憎しみの元が、海も隔てないで、道路のムカイに居たら、しかも60年なんて、ツイ最近?ではなく、100年も200年も続いたら、「正常の生死への理解」が変質するだろう。当然の如く。そしてそれ以上に厳然と横たわる真実は、死んで行った子ども達に罪がないことだ。これらの真実の呉越同舟の様は、私には理解不能である。そう、ロシア人の親は、またチェチェンの人々を呪う。そしてまた殺戮。
    殺戮。武装勢力は最初から助かることを考えなかったか?特攻隊だったのか。そうでない証拠に逃走している。では人質は最初から開放を考えたのか。いや考えてなかった。交渉用に開放をちらつかせただけだと思う。だからロシア軍は逃走する相手を皆殺しにかかった。殺戮。胸も露に裸でおびえる日本なら中学生の女の子。頭に包帯を巻き付け恐らく死の淵にいる5、6歳の子。これらの姿は、東洋人なら決して越えてはならない一線だ。だから中国の人々は日本を憎む。戦争。それはすべての残虐行為を正当化しようとする悪魔だ。
    戦争が悪魔のなせる業であるならば、どちらの神もお許しになるはずがないだじゃないか。つまりこれは人、ヒト、そう、ひとの仕業に違いない。一方では、せっかく平和に終ったオリンピックがあると言う皮肉。例の弓の高校のベテラン先生が、生徒をあんな風にされたら、相手の心臓を銀の弓で貫くだろうか。聞いてみたい気がする。私ならする。憎しみ会うモノたちが決して手にとってはならないもの、それが武器だ。彼の銀の弓は武器ではなく、愛そののはずだ。武器を持つ教師をあんなに生徒が喜んで迎えるはずが無いじゃないか。彼の弓は愛の証だからだ。
    どっかの猿もこっちの猿も彼の国のさる達もよく聞いて!(本当のオサルさんたち、ごめんね。) 愛を失って武器をとるものに愛国を唱う資格などない。いったい何度も戦争をした今日なお、我々ヒトは、なぜそれを悟り得ないのか私には合点が行かない。われらが苫小牧の高校球児たち。一試合、一試合に感動を与えてくれた。一人の天才が投げあって1点を守るようなつまらない試合ではなく、皆で塁にでて点を取り合う野球本来の面白さ。それを失ったプロ達の銅は、かえって良くできた、と言うべきかも。(決して認めているわけではありません!)
    過去最高となったメダル。一度弱くなった精神を磨いたわれら日本のアスリート達。黄色く実った米の穂波のようだ。とこうすれ、いつのまにか、南半球で一生懸命努力をして国を育て、苦しみながら税金を有効に使い(近いから一緒)、アスリートの精神をたくましくした白い人達。白い人もやればできるじゃないか。運動達者な黒い人達に助けられなくても。神の作り給うた人種の違いを私は好む。それがオリンピックの一番の面白さだと私は思っている。
    そういう一つ一つの真面目な努力とその汗の成果への感動は、その裏で、ドーピングなんてケチなもんじゃない(決してけちだと思っていません)、なんとこども達のホロコーストの計画を許した、と思うと悔しさで頭がヘンになりそうだ。人間の努力や叡知に反する戦争と戦闘。その悪らつさに言葉を失う。
    思う。私は、最も悪の権化は「武器」だと思う。ゲンコツやせいぜいサッカーボールやバスケットならいいじゃないか。武器、武器製造、そして販売。日本人が平和主義者なのは、戦争にコリタからではなく、武器を取り上げられたからだ。それなのに、その正式参加者だけが公式に武器売買を出来る国際連合という名の、武器製造および使用の許認可会議のような過去の産物。そんなものにうちの首相はうつつを抜かし、目立たない人がクリスマスにびっくり手品で余興をするかのように、北方4島を山車に参加の機会を伺っている。そんなことをする必要がどこにあるのだろう。
    オリンピック発祥の地。いわば運動の聖地ギリシャ。現在の文明?の覇者達のルーツがそこにあり、そこではサッカーボールを使っての代理戦争が彼らとイスラムの人々との間にあった。それはとても素晴らしい。まるで文明の英知のようじゃないか!ところがその裏で、その同じイスラムの人々が、白い人達の子どもを銃弾で無差別に殺戮している。飛行機も爆破した。聖戦だそうだ。それならアテネで立派に勝ったじゃないか。立派だったじゃないか。
    戦争と言う名の殺戮。これこそが、一見白い文明の、黒い部分、醜いカオスだ。白黒黄色、みんなチューリップのように咲けばよい。その上さらに、細かい斑モンヨウが必要なのか。紋様の境界線を守ることが本当に民族の自立なのか。お互いの子孫を殺し会う事が誇りの証明なのか。ある神の書に説くように、自分の髪の毛の数も数えられない人間が勝手に作った宗教という悪魔メフィスト。野の花にさえ美しさを与える神を奉るが如くのこのまがいものが、なぜ本当の神の作った種の保存の神秘をイトモ平気に破壊するのか、小児科の私には不思議でならないし、そもそも天罰が下らないのか理解の埓外である。と、このところ私は、申し訳ないと思いながらも、周りの人達や患者さんにまでも、その憤懣をあたり散らしている。ついでに言えば、私は300を越す人々が、まるで作り損ねの木偶のように無造作に積み重なった様を写真で見た記憶があるが、それはアウシュビッツ収容所の跡地だったか、ロシア領のそれだったか思い出せずにいる。悲しいかなしい出来事である。(040905)

  • 神よ我がホモサピエンスに叡智を!の巻その1

  • → 今年9月のいつか、北海道を「暖かい」台風が襲った。運の良いことに、各地で死人を出した程のものだったのに、苫小牧市は、うまく台風の目に入った。だからたいしたことは無かった。とは言え、いつもは寒気に守られて、恐ろしい、エネルギーの大きな「暖かい」大風にあまり吹かれたことの無いご当地 の人々はかなり驚いた様子だった。プレハブがいとも簡単にふっ飛ぶ様は恐怖だったようだ。今年はこちらも気温が高かった。だから本場の台風が、いつものように、寒気でエネルギーを取られることなく上陸したようだ。
    その風台風からまもなくして、三重県などを中心に雨台風が上陸、多くの死者を出した直後に新潟の大地震だ。この日本海の人口の多い地域を襲った地震は、覚えている限り関西大地震に次ぐ規模だ。そしてなんと、これら自然の災害での死者が、2ヶ月に満たない間に100人を越えているのだからすごい。こういう大きな自然災害の影響か、日経平均はジリジリ10000円に後退しようとしているのだから興味深い。対照的にブッシュが再選されたらニューヨークはあがっていると言う。表面は接戦を伝えられる大統領選挙。経済面からは、ごく順当だったようだ。
    経済、とくに株と言うのは、人の意志が強く働くから、人々の生き様を映す鏡だ。それが映している世相は、バブルが崩壊した1980年代の中盤からやっと前を向いて歩きはじめたのに、災いが次々と襲って頼りなくよろめく日本の現状をよく表現する。なにをか言わんってとこかな。
    けれどただよろめくだけではない人々もいる。大雨で水没しつつある観光バスの天井で、「そこにあるもの」を使って、知恵をしぼって 危機を乗り越えたとっくに壮年を過ぎた方々の勇気。バスのカーテンを繋ぎ合わせて命綱にし、肩を寄せあって暖をとり、木にバスをつないで流されないようにする不屈は、サバイバルの手本のようだ。あきらめたり、流されたりすることは簡単だ。竹ザオでバスをつなぎ止めるなんて、あれがしたり顔のエリートならしなかったろう。大儀も益もない駐留をなんだかんだとへ理屈をコネて長らえ、テロの標的として国民を暴力に晒し、自然災 害の前に無力をさらけだす誰かさんとは大違いだ。そういう人をアメリカ人は再び元首に選んだんだから、国家アメリカとイラクは血生臭い宗教戦争をこれからも続けると意志表示をしたも同然だ。他のアジア人は決して参加してはならない。アジア人は神に敬虔だが、神を武器に戦うメンタリティは持ち合わせないはずだから。そんなこと無いって?そうかなあ。
    新潟の小千谷市の周辺の人達は大変だ。もうすぐ冬だ。観楓会、温泉、クリスマス、大晦日、そして正月。普通に暮らしていても、正月やクリスマスが無い人はいくらでもいるが、自分の家は破壊され、周囲といきかう事も出来ない状況は異常だ。通帳は大丈夫だろうが、お金が入っているとは限らない。庶民の生活は微妙なバランスの上に成り立っている。幸せも不幸せもその範囲でなら許される。そういうバランスが根底から覆された時、人生が揺らぐ。だから大変だと思う。そういう特別な不幸が人を襲っている。岩のような土砂のなかから助かった2才の子どもさん。救出の瞬間、目頭が熱くなった人も多いだろう。そして引続く無言の数時間時。いつまでたってもアナウンサーの感嘆の声がないことへの不安。そのあとのレスキュウの辛い発表。まさに、天国と地獄が姉弟を分ける。
    そして、外傷後ストレス症候群やエコノミークラス症候群。名づける方は気ままで良いが、名づけられる方は辛い。あろうことかの車中死。自分のすみかを理不尽に追われたヒトは意外と弱い。強いか弱いかはその人の意志の強さとは関係なく、その人にとって、失われたものの大きさに依存するように見える。家や畑が生きる糧になっているヒト。住いは共同住宅で十分で、家族さえ健康であれば良いヒト。お金が全てのヒト。そのヒトの生る事への原動力がどこにあるかに依存する症候群だと言う気がする。同じ狭い車中で、そのヒトの生活のルーツがそのヒトの生死を分けている。
    アメリカの国旗を身体にまかれ、頚動脈から血を抜かれた骸。数メートルの血シブキがあがった次ぎの瞬間には痛いと思う間もなく意識は途絶えたろう。見た目はひどく残酷だが、楽な殺し方のような気がする。と言って彼らがそういう温情をかけながら殺害したとは思えない。羊の血をぬくように、単に神への生けにえだったのかも知れない。それは、イスラエルからイラクへ。何を考えての行動か知る由もないが、アメリカに追従する日本人がアメリカに守られた国を経由して入って来る。いけにえにもってこいじゃないか。あちらも今の日本が金で簡単に解決出来る国だとは思っていない。そんな人達を向こうに回して、そんな恐ろしい事をするなんて私には考えられない行動だ。この点で前回の3人の人質と明らかに違う孤独な死だった。生けにえ以外に利用価値のない敵性人のじゃあないだろうか。彼が、たとえどんな崇高な考えを持っていたとしても、表面上は、昔ながらの日本人の特徴が良くでている。周囲がどう考えるかに思い至って、ともかくも中止に出来ないような独善的な行動は周囲から異質に見えよう。万が一彼が難を逃れて日本に帰り、彼の人生を続行したとして、この事の一年後、彼が一年前を振り返ってどう評価したのだろう。もっとも気にかかるこの点からいうと、彼の死は自殺である。もちろん、私は彼となんの接点もなく、親御さんが聞いたら御立腹かもしれないが、なんともむなしい感じが、私にはぬぐえなかった。
    そう感じる理由は他にもある。いま、人工呼吸器につながれている4才の子どもがいる。彼の頭のなかには癌細胞がヒシめいている。2年間の闘病生活で、脊髄周囲を何度もメスで切られ、放射線をあび、苦しい抗癌剤に耐えて来たこの2年。親も、その親も必死で共にこのつらい戦争を戦って来た。そうやって彼は2回程クリスマスを家族と勝ち取った。が、3回目の クリスマスはどうだろう。運動会、クリスマス、学芸会。年月を繰り返しでとらえると、そこに定番であるイベントが必ずあるものだ。年を越すとはそういうフツーのイベント を何回越せるか、という意味あいもあるんだと思う。普通に生活すること、そして正月が50回も80回もあること。そのために普通に生きること。これがヒトの人生をすこし外から眺めると、最も大切な「生の保存」なのだろう、と思う。「種の保存」は、神が生き物に与えた使命だとすれば、「生の保存」は、同じく神が生き物に与えた運命ともいうべき言うものである。
    私と同い年のヒトが癌で果てようとしている。私自身も何とかの不養生で、人生何度目かの試練を迎えている。ヒトそれぞれに運命があるのだが、それに抵抗するでもなく、受け入れるのでもなく、ただただ年齢、ヨワイを重ねる事。運命の途切れる時まで一生懸命生きようと意志を持つこと。それがヒトの「人」たるゆえんであり、またヒトの生き物たる結縁でもあると思う。
    さて、最初に触れたように、大方の予想どうり、これを書いている最中にアメリカの大統領が決まった。寂しく去るクリちゃんと違って、おごれる猿顔が勝ち誇ってすごい形相になりそうだ。また酒を飲み始めなければ良いが。彼は戦争の大儀がないままに戦争を続ける信任を国民から得て、これからも理不尽な殺戮を続けてゆくのだろう。せめて、彼が、その愚劣な行為を神の名においてなさないことを祈るのみだ。願わくば、死にゆく我が患者さんの、新潟で寒さとこわばりのなかで息絶えた人々の、あるいは、普通の生活を夢見て果たせない、戦禍にあえぐ人々の気が集合して神に届き、眠れる獅子を起こすがごとくに、戦争を繰り返す愚かな精神に対して、こらしめが下ってくれれば、と考えるのに私はいささかも躊躇しない。イラク戦争?戦争は、国家という利益集団が、たとえ、独善的であっても国民の平和と利益の為に、大儀のもとに行う悲劇だ。国民の平和と利益をえる目的においてそれは、人殺し、とよばれる行為と一線を画して来た。そうじゃなくては、霊長類ホモサピエンスが誇る「叡智」は不在な訳で、我々は、人じゃあなくてただのヒト、になってしまうよね。(04.11.4)

  • 神よ我がホモサピエンスに叡智を!の巻その2

  • 4>⇒国民性と言うのはあるようであってないようなもので、実はあるっと思う。
    私の患者さんのt君は弱冠4才だが、後先が知れている。t君の悪性腫瘍が見つかったのが2才。それからは抗癌剤と手術の日々が今日まで続いている。こちらではだめで、東京の病院に転院してまで、母子を中心に兄祖父母が頑張った。最後の治療、というのが夏おこなわれて、一旦帰宅。この時の確立は半々。あらたに、転移が見つからなければそれでハッピイだったのだが、残念ながら秋のある日突然呼吸が停止した。その何日か前に、風邪でかかっているが、あとでその話しを祖母とした時には、それが、本人の「ごあいさつ」だったと感じた。母親の第16感が働いて、なんと東京の病院に返ったところで呼吸が停止したので、適切な緊急処置がとられ、一命はとりとめた。近く郷里に帰宅をすることになった。すでに新たな転移が見つかっている。家族の絶望は量り知れない。そしてもうすぐキリスト教とはあまり関係ない日本のクリスマスが来る。
    つい最近、私の友人のような患者さんの本当の友人が亡くなった。胃の腫瘍だった。発見したときは、良性のものを期待したが、しかる運命なのか、「おおきい病院での精密検査の結果」は悪性だった。延命措置がとられ、本人は、ほんとうのところを知ってか知らずか、治療を続けていた。最近は、はっきりと自分の運命を悟っておられた。周囲も主治医も、1月のお孫さんの誕生にむけて頑張るように言い含め、本人はその言葉を信じての闘病生活だったようだ。わたしは、年令の近い彼女のこの一年の生活を考えると言葉を失う。たしか、亡くなる1週間まえに最後に会った時は、恐怖を語られていた。死への恐怖だ。その友人である私の友人のような患者さんも私も、この一年は自分の身体の不安と多少とも闘ったので、なおのことのように感じる。そして一月は、新たな年の始め、お正月である。こたつ、そして餠。
    このところ、世界で色々とおこっていて、日本でも大小の災害で多数のひとが犠牲になっている。うちでもささやかなバザーの協力金がポリオワクチン700人分くらい集まった。テレビの報道でも、奥尻の大地震、関西の大地震の被災者が、新潟や三重の被災者にお金やボランティアで「ごおん返し」をされているようだ。
    本当のところ、世界大戦で焼け野原になった事を原動力に大きな発展をとげ、しかも逆にこの20年というもの世界初の経済成長後のデフレに陥って、いまやっとそれを克復しようとしているわれら国民が、本心で戦争に加担するはずがないと思う。イラクの自衛隊は、ねらわれながらも子どもに本を贈ったり、友軍が壊した病院を修復したりしているのだろう。アメリカ兵ならば、民兵とおぼしきあやしい輩がいたら、先手をとってうち殺すかもしれないが、我らが日本兵であれば、1人犠牲になってから報復するだろう。まあ、そのあとは何人(なにじん)でもおんなじだろうけど。
    没個性的で、全体に埋没しているようでいて、他により不孝があれば「じぶんでできる」助け、その多くは金銭やボランティアというジミな活動であれしようとする国民。自分に関係がないことであれば、「他人事じゃないので」という言訳をしながらも、「他人事」にもできるだけ「人助け」はしようとする国民。そういう行動の根拠は、「もし、自分もおなじめにあったら」という暗の共感だろう。それが日本人だ、と私は思う。
    いまの政府は、そういう日本人の国民性と解離した、アメリカ流の「明確な正義」を演出しようとしているように見える。けれどそれは、決して我々の国民性と通じるものではないし、とりたてて言えば、「異質」であると私は思う。今のような間接選挙による政治は、日本人の体質にはあうのだろうが、今のような世情から、しまいに戦争などの極端なナショナリズムに走るきっかけも作って来たように思える。つまり、のぞまなくても、しまった、と思った時点で国民の総意として暴走を止める、という手段を持たない。それは、過去の神国を信じた戦争でも、現在の間接戦争でも変わりはないと思う。いま、日本の間接的な参戦状態を止めたい人々は、過半数をこしていると思う。でも、止める事は出来ない。そして、近い将来かならずそれに、直接報復をうけるだろうと思う。
    最初にお話しした患者さんたちの運命は、神の決められたことで、それでも充分すぎるほどに悲しい。1人の個性の、それまで綿々と続いた生活史が、とぎれるのである。なくなるのである。あとは、どんなに参加したくても、天国からあるいは地獄から、かれらは、指をくわえて見守ることしか出来ないのである。しかも、天国も地獄もなく、単に「お、わ、り」の可能性もある。そんな「死」が毎日毎日、マクドナルドのハンバーガのように、西アフリカやイラク、アフガニスタン、イスラエル、パレスチナ、、、などで大量に生産される。 しかもその殺される人々にも前の患者さんのように、本人や御家族の生活史があるのである。正月にあたるもの、クリスマスにあたるもの、結婚や出産などなど。地震や台風だってあるだろうし、人の不孝を哀しむという生活史もたっただろうに、いまはただただ、消滅するのみだ。しかも、その運命といえば、神の意志と言うよりも、石油くさい一部の他国人の意志である。だからこそ、のこされた人々にのこるのは、哀しみや絶望だけじゃなくて、報復の意志だ。
    テロは確かに間違いであり、だれもそのことを問いはしないだろう。だからといってそれの根絶をかかげて人殺しをするのはいかがなものか。それだったら、いっそのこと武器をもっている人全てを死刑にする方がより合理的ではなかろうか。敵国という勝手な条件をかかげて、そのゲットーにおいこんだ武器をもつ人々を、その周囲にいるという理由だけで、武器をもたない我々日本人とおなじように凡庸で平和な人々、ひとりひとりの生活史を負った人々を、武器を持つ人々と共に抹殺することに、正義があるとは私にはどうしても思えません。だから、まず我々が地球上のすべての武器をすてさること、これが唯一ヒト、という好戦的な愚かな種の出来る神聖な神への儀式であり、よき種への変異だと私は思うのです。
    「キリスト教徒」の創った武器が「イスラム教徒」を追いつめた。「イスラム教徒」は武器を握り、かれらは互いに殺しあい、果てた。倭の国の民(譬喩だから、少数民族のひと気にしないでネ)は、イヤだったがしかたなく、攻撃的な一部の「キリスト教徒」に加担し、これまた一部の過激な「イスラム教徒」の凶弾に倒れた。 死に絶えた倭の国の人々の手には、気の毒な多くの「イスラム教徒」に贈ろうとした新千円札が沢山にぎられていた。。。そんな碑が、太陽系の別の惑星の民の史料館に飾られなければよいと、私は本気で思っている。 そうそう、後日談があった。その新千円札の顔にはジュンイチロー歴史を創るという透かしがあったと言うことだ。(04.12.2)



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