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→さても、今の株安はどうだい。ひどいもんだ。アメリカの株価に沿って、あがったり、さがったり。あまりにも情けない。
 私自身は、もう何年もまえ、まだ昭和だったころ、中国電力株が1414円に急騰し、手に入れてから半年あまりで倍になったときに、なぜかひどく頭に来た。で、株をすべて売って以来やらなくなった。一生懸命働いて給料が倍になるなんてあり得ない事なのに、操り人形のように株券の値段を操作する奴がいる、バカらしくてやってらんない。そう思ったもんだ。この時はしかし、異常だと思いこそすれ、ゲ-ムから自分が離脱することで、知らんぷりが出来ると思いこんでいた。ところがどっこいそうは行かなかった。バブルが崩壊したと思ったら、その黒い雲は日本全体を瞬く間におおい、現在の暗い自信のない日本にしてしまった。これは、想像を超えていた。私の会社も潰れた。そして、暗雲による暗い天気は、すでに15年も続いている。
 21世紀に人々は希望をかけた。時がくればもとどおりの生活に戻れると思い込んだ。単に西暦の数字が変わることに、過度に期待をしたわけだ。私も人にはいろんな警告を言いながらも、明日くる未来を信じた。前に書いた「黄金のつばさの巻」は、その表現だったつもりだ。それがどうだ。この春に、去年職をうしない、それまで飲んでいた薬を間引いて飲みはじめた多くの患者さん達に、にわか勉強の経済学で、この2年9月には、明るい希望がもてるようになっている、なんて言って励ましてオオウソをついた。きょう日9000円を割りそうな株の動き、ニュ-ヨ-ク市場の軟弱な値動き、そして告発国家になりさがったアメリカや日本の姿をみてはっきりわかった。この現象は、箱庭にいた自分には、十分把握する事が出来ないんだ。ここいらでみんなで本気で努力をしないかぎり、日本は本当に沈没するんじゃないか。
 我が医療界も、この10月から、老人医療費が、一般患者さんとおんなじ具あいに出来高になり、その1割か2割をなんと収入に応じて払わされる。老人手帳も70歳からもらえたのに、75歳からになった。医療機関は、老人Aさんの収入が600万円以上なのか以下なのか、もっともプライベートに近い情報を無理やり知ることになる。住基ネットなんて、目じゃない。このこと事態が大問題で、患者さん側も憂うつだし、我々もだ。けれど、さらなる問題は単に1割だ2割だ、少ない年金をさらに喰われるなどといった次元の話でもすでになくなっている点だ。国内でいえば、一昔前のだれでも平等主義=民主主義の思い込みのしあわせな時代から、勝ち残れるお金のある人が生き残る西洋的弱肉強食の時代に変革させられてしまった。つまり、国と国の間で、20世紀の勝ち組と21世紀の勝ち組との世代交代が始まっているとわかった。いわば、日本、それにヨ-ロッパの国々は一部上場企業だ。それにたいして、ロ-カルだった市場がこれからの世界市場を支配する。一部上場企業は、退場を余儀なくされる、そういう構図なんだと思う。だから、いま、オカミが焦っているんだ。首相も国民に顔をむけるそぶりだけしといて、その構図にどっかりつかっている。そして、いまはいかにも勝ち組トップのアメリカも例外ではなくなっている。エンロンや三井物産の動きがそれだ。おごれる狼がついにおいつめられている。どっかの大統領のモンキーフェイス。心が泣いているように見えませんか。
 はなしを自分の医院にむけてみる。私は、薬を購入するとき、「先発」という高い薬を使わずに「後発」という安い薬をつかっている。最初は「後発」の薬の中でも、薬価と値幅が大きすぎて、こっちには有利でも、数買わないと問屋側が損をするような薬品をさけて購入することで、自分で利益も経費も圧縮して共益する方法で、97年の医療法改正を乗り切った(と信じている)。しかし、今は、すぐに利幅のでる安い薬に替え、患者さんにも協力してもらい、メインの病気以外の「アソコが痛い、ココが痛い」風の訴えに対する薬剤は出さずに、薬をへらすことにする。もう今日からそれを患者さんと相談し始めた。また、いままで極力、「競争」なるもの、つまり医者にとって下品なものをさけ、近隣の先生達の患者さんをとることなく、新しい医院を運営することを考えていたが、いますぐにでもそれをやめようかと思っている。一人でも患者さんを、それも国が冷たくする高齢者の人ではなく、少子化で大事にする子供様をタ-ゲットに、あらゆる手を駆使して患者獲得をしなければならないんだ。医療以外では、10年後の立場の逆転を考えて、教師のようにではなく、お客様をあつかうホテルマンのようにアジアの国々の留学生に接しよう。そうしないと、我々の子供たちは、そういう国々に出稼ぎにいって、いままでの我々の言動をあげつらわれ、いじめられたり、辱められたりする可能性が高い。今日、中国人の留学生にそういったら、かれは、「たとえ、ほかの中国人がみんなそうしても、私はしない。」と答えた。やれやれ、やっぱりなんだ。
 21世紀は融和の世紀でも共和の世紀でもなく、あたらしい競争の世紀なんだと思う。1円1銭の無駄を省き、怒濤の嵐にそなえなければならぬ。いま、ノホホンと嵐が過ぎ去るのを待っている人は、確実に暮らしを失うだろう。我が首相もそうだ。帝王学とはエリ-トのものだ。あの人たちは、民衆の本当の嘆きを知らない。ほほに、冷たい氷雨が突き刺さるようにあたり、冷えた皮膚がピリピリと強い痛みを生じるように、不敵な笑いや遊び心、コじゃれたジョ-クを同時に考えながら会話を楽しむ、昔の没落貴族風の余裕のある態度はそのうち失せる。世は、英知による和合でもなく、逆にハルマゲドンでもなく、確実に生き残りの時代にはいったんだ、とわかった。国は、特にもとの大蔵省は、明確に、1000兆円あるというタンス預金をのこらずださせ、国債のツケを払わせようとしている。国があって国民があるんだ、と言わんばかりだ。日本という国はいつでもそうだった気がする。戦後の半世紀だけ、世界の手前、そう見えなかったに過ぎないというか。それに、なんといっても、儲かっていた。潤っていた。大蔵省もうるおっていた。いまは、違う。民間の企業や国民の生活の安心よりも、新しい国債を発行しなくてすむように税金の確保に腐心している。まず、減税と規制の緩和で人々の経済を豊かにし、その後に、税収を見込むというまっとうな民主的皮算用をまるで受け付けない官僚たち、それを官邸も後押ししている。これは、世界大戦をくぐり抜け、この国をここまで育てた老人たちを目の前にして、血圧を測定する毎日から実感として伝わってくる悲しみの電磁波なんだな。
 ンン?そういえば、なんか、左の方からつぶやきが聞こえてくる....(ちなみに、私は今、苫小牧の医院で北に向かってすわっている。)「・・・ おれたち少数の人間だけが暮らせればいいじゃないか。国民?国民なんではたらきバチでいいんだ。ロシアを見ろ、中国をみろ、アフリカをみろ、アジアをみろ、それに、アメリカだって。いったい、今世界のどこに、国民全部が富んでいる国があるんだ。みんな、特権階級だけが楽しく暮らしているんじゃないか。なんで、日本だけ、国民が平等に平和に暮らさなければならないんだ。まず、おれたちだよ。国が成り立たないで、何が国民だ!そんな甘いこといっていると北朝鮮にミサイル打ち込まれて、おだぶつだぞ!とにかくまず、税金を確保!。そのためにタンス預金を使わせる。銀行にはペイオフ特区。金利0の口座をつくり、そこにいれさせろ。銀行は○○みたいなもんだ。我々もマイナイがないと困る。だから結局税金で助けろ。だいいち、タンス預金は、家族が少なく、余命も少ない老人に偏在しているんだ。かれらが金をもっていて、いったいなにするというんだヨ。どうやって使うんだ。平均年齢ばかりあがりゃあがって。医療費がへりゃあしない。医療費ばっかり喰って生き永らえたら、おれたちが若くしてガンにでもなったとき困るじゃないか。だからサ、薬なんてつかわせないようにしてやるんだ。それに国債の額みてみろ。みっともないったらありゃあしない。ヨソさまに、あれこれ言われて、あながあったらはいりたいヨ。格付けが、太平洋のどまんなかの、○○みたいなナントか国より低いだと?ろうじんに金を出させろ。墓場にもってってどうしようっていうんだヨ。われわれがコ、マ、ル、んだよ!おれたちにだって子供もいれば、愛する妻もいるんだい。なんで国民の権利ばっかまもんなきゃいけないんだよ!!まず、国、クニなんだヨ!」そんな幻聴、みなさんも聞こえてきませんかねえ。ついに、いけません。涙が出そうで、心が病んできましたぜ。みなさん、おとしよりを大切にしましょう。それこそ「ミ、ン、ナ」人間なんですから。イイトシこいて、なさけなや、何で医者やってんのかわかんなくなってきたゼイ。(02.9.11昨年の例の悲劇の日を前に)


→最初から言い訳だけどね、最近、このコラムの書き下ろしが遅れる。飽きたわけでもやめたいわけでもない。あるニュ-スがあるとする。その続報を見て考えをまとめようといるうちに次の重大ニュ-スが起こる、次の日には又重大事件が起こるといった具合の連鎖なんだな。で、考えがまとまらないのだ。きっとみんなもそうじゃないかと思う。あのノ-テンキなウチのジムチョウが、ナ、なんと、北朝鮮のら致事件のニュ−スを毎日見ていて、「考えさせられるよねえ・・・」とか言う。20代後半とは言え、いままで考えられなかったこの発言!(とか言うと本人には失礼か・・)とにかく、世の中はただいま異常な加齢現象の中にいると言えるかも。ご存知「ご説明マリ」ことヨ-キ-のマリがつい先日8才になった。イヌ族は、1年に人の年令で4.5才ほど加齢するからドッグズイヤ-とか言われるわけだけど、最近の人間もイヌ族におなじだと思う。
 さて、その北朝鮮ら致問題、北朝鮮核開発問題、アメリカ-イラク戦争、バリ島爆弾テロ、日本デフレ不況等々、今、どれがいちばんの重大事だろう。なかなか、単純に順位はつけられない。
1)北朝鮮ら致問題と核開発問題
たしかに、当事者にとって、人生最大の出会いだったと思う。けれども、ご家族など当事者にとっては、本当は悲しみと怒りの方が強かったはずで、このあたりは、途中から、報道の姿勢にフィルタがかけられてぼやけてしまった。国交の正常化が大事だから冷静に、とは自分でも言った。けれど、あまりに人工的な気もするよね。これで雪解けが一気にすすめばという一般的日本人的楽観論とは裏腹に、アメリカがたちまちチャチャを入れてきた。北朝鮮が核開発をしているから、日韓米の連携を緊密にして反対しよう、という。ナニヲをいまさら、という気がする。そんなこと誰もわかっているし、第一、パキスタン、イラク、イラン、どこだって同じじゃないか。私はもっとも平和な国とは、どんな信条やイデオロギ-だろうと、power gameから降りる勇気を持つ国だと思っている。アメリカもそんなことを言うが、そりゃオカドちげえだぜ、てんだ。自分が核を捨てるばかりか、ミサイル条約からも降りてしまっておいて、人に核もつな核もつな、て良くヌケヌケと言えるもんだと心底思う。もっとも核のpower gameを優先する国が、平和なんてちゃんちゃらおかしいヤイ。振り返ると、20世紀は平和の世紀ではなかった、戦争の世紀であった。後半大きな戦争が少なかったのは、核の力を恐れて、連合国にしたがっただけだ。つまり、無理やり抑止されたわけで、真の平和が存在したわけではない。だから21世紀の始めに、唯一の貧民闘争手段としての爆弾テロが根づいた。そういう意味で、20世紀はモラトリアム(執行猶予)の世紀だった。
2)アメリカ-イラク戦争(第二次湾岸戦争)
 そういう意味ではイラク-アメリカ戦争が一番重大かもしれない。アメリカは第二次世界大戦以来、戦争にかならず核を使っている。長崎、広島しかり。湾岸戦争でも劣化ウラン弾を使用して、いまでも広島、長崎と同じような子供たちが生まれているという。つまり、私の予想では、もし、イラクが屈服しなければまた戦略核を使用する、と思うのである。もし本当にこれが3度目の正直であれば、今後そのような国について行ってはいけないと私は思う。
 個人的には、私は文化的にアメリカに親しいと思う。朝鮮動乱の時期にうまれ、アメリカ人と共に国家アメリカのベトナム戦争に反対し、安保の時代をくぐりぬけた。アメリカ人の友人も居た。ホ-ムステイの時18歳だったオレゴンのステファンもとてもすてきな長老派教会の牧師になったろう。自分自身もメインの片田舎を中心にアメリカに3ケ月以上滞在し、今ではアメリカ製のヘリを使い、今でも医学はアメリカが一番と信じている。でもそれは、暮らしの中の普通のアメリカの人々の集合体としてのアメリカであり、いわゆる国家アメリカではない。パンアメリカ-ナはゴメンだ。アメリカは、あきらかに、国家アメリカと自由アメリカを使い分けている。世界でもっとも自由なのがアメリカ人で、もっとも傲慢ではなもちならなく、人を人と思わないのが国家アメリカだ。しかも、それが世界の安定に必要だと心から信じている。
 私は、アメリカ人は概して好きで、他国の文化や人々を爆撃し根絶やしにする、ウラン使いの国家アメリカは大嫌いだ。アメリカ人は多国籍だが、国家アメリカは独裁国家だと思う。それに対してイラク人は(宗教的に)単一国籍だが、国家イラクは宗教的に独裁的ではない。なぜなら他のイスラム国家と友好を保っている。アメリカは気に入らないとすぐに制裁をかし、人々を飢餓にくるしめ、ウランで根絶やしにしようとするではないか。
 そういう流れの中では、日本もまた独裁者の忠実な部下だ。自国の人々が苦しんでいるアメリカ軍の騒音訴訟。国の法律に照らして勝っても、2国間の安保の流れの中で、アメリカの占有を許しているのがその証拠だ。つまりは、「核の傘」にはいるということは、そういう意味だ。我が日本はだから、世界の貧困と非自由に苦しむ国々のはっきりとした敵国であろう。だから、貧困の中での唯一の抵抗手段がテロ行為だとすれば、日本も当然その直接の標的でありうる。
3)バリ島の爆弾テロ
 これは明らかに、どろだらけの道の端にはえている草の根っこを食べたり、一部の軍部の支配のもと、単に彼らの食糧と生活を保つためだけに生かされているような、そんな人権を冒涜され続けている人々からすれば、南海のおだやかな島でバカンスと称してレクリエ-ションにうつつを抜かして、夜な夜な踊りほうけているしあわせな連中を爆死させるのに、なんら屈託があるとは思えない。だってそうだろう!じぶんが草の根をたべ、こどもにヒエ、アワをたべさせている人が、白く肥え太った連中を鬼畜のように忌み嫌うのに、いちいち理由がいるとも思えないし。もちろん、テロそのものは断じて断じてゆるせない。しかしだからといって、世界の生活の厳然たる格差のなかで、貧乏人を横目でみながら、高級なワインを飲むような行為もいまや許されるはずがないと思うのである。
4)日本のデフレ
 首相のやり方を見ているかぎり、統制経済にはいったとおもって間違いない。もちろん統制経済と言っても、戦前のそれと、戦後のそれではまるっきり意味合いが違ってくる。それがどちらかは、今の時点では不明だ。しかし、あの官僚官僚した柳沢大臣がやめさせられ、あの民間人の竹中さんが残ったことで、見た目は戦後的だが、事実は180度逆だとは思っている。我が首相、自分はうまくいっているうまくいっていると言うが、問題点を自分の信任する人々にまかせ、その項目とそれに対しての彼らの論議だけを結論として語るやり口はもう飽き飽きだ。というより、心理学的に、この人は異常ではないのだろうかと思い始めている。それが戦術なんだとか、ホントは分かっていてワザとやっているんだとか、いろいろ考えたが、あの人物は、あれが正常であると、こころから思っているフシがある。きっと、それが、自分が信じた人間を信じる事だ、とかなんとか考えているんだろう。であるとすれば、それは異常だ。自分の言葉で語れないことを人の意見を信じる事とすり替えているのではなかろうか。これから、「改革」がうまくいこうが失敗しようが、それは彼のキャビネットの力のあるなしであり、彼の力でないことはおそらく疑いがないような気がしている。とても残念ではある。
5)ノ-ベル賞
 唯一明るいニュ-スはやはり、ノ-ベル賞の受賞だろう。特に、田中さんの快挙は、とにかく痛快だ。自由になったとはいえ、閉鎖的な「学会」とその論理。それは医者であるだけによく分かっているつもりだ。化学の世界は医学とは違うかも知れないが、もしこれが医者だったとしたら、地方の民間病院で働く一医長がノ-ベル賞をもらったわけだから、その世界の教授や大学の研究者連中のあっけにとられた顔、青ざめて、Medline(=医療文献のデータベース)かなんか、文献集をガサガサ探す姿がまざまざと浮かんでくる。かれらにとっては、田中さんの論文を読んでいる博識な学者だったとしても、学会であったら、自分の方からあいさつをすることもない人物がだいそれた賞を獲得して、まさに青天のへきれき以外の何者でもないはずだ。第一、名門民間病院であってみれば、博士でもない彼を医長にすることもなかったろうから、そう考えると、痛快も痛快!! とはいえ、今後とも、今や、世界の頭脳たる彼の研究の自由が阻害されない環境が確保されることだけは願う。それはそれとして、もひとつ気になるのこと、それは、彼の特別報償金が1000万だとか。ノ-ベル賞の約1/3だから金額としては大きい感じも受けるが、島津製作所自体の金銭的価値も、彼が受賞してから先週までの株価の上昇分で計算する経理上の総額が350億をこえている訳だから、考えたら1000万とは微々たるもんだよね。研究のためだ、ケチケチすんネイ!なあんちゃって。(02.10.21)


→いやあ、毎日忙しい。気がついたらいつのまにか、時間が経ってしまって。ごめんなさい。しかし、このMac OSX っていうのは、どう考えても駄作にしか思えない。動きが遅すぎる。仕事でどんどん使う環境には思えない。これを皆、良い、良いって言うんだから良いんだろうけど。構造が緻密すぎて、考える道具としてのマックの良さがなくなって気がするのはトシのせいかなあ?マニュアルと首っ引きのマックなんて、マックじゃない。だから読まないでいるけど、そのせいもあって、この文章にとりかかるまでに、10分以上かかる。。。
 ま、気を取り直そう。。。しかし、いつのまにかあなた、自分の家族が外交官にされ、北朝鮮との交渉に使われているとしたらどうだい。しかも、捕虜は子供たち。日本と北朝鮮両方の血を受け継いでいる子供たちである。子供たちが今、国と国の間をアイデンティティ失って漂っているとしたら。国もひどい。家族という名のスポークスマンに、毎日「自分の家族を救いたい」という姿を見せることで、相手を納得させようとしている。これは外交手段としては大変卑劣だと、私は思う。だって、かれらは本当の家族なんだから。私が北朝鮮人で、北朝鮮に棲んでいて、日本のテレビを見れる立場だとすると、私という北朝鮮人は、日本人を理解しようとするとは思えない。「卑劣なやつら!」と思うに違いない。相手は、立場も民族も、したがって、考え方がまるっきり違っているから、戦後こういう関係が続いて来たんじゃないだろうか。だとすれば、こういう、一方的な正義を突き付ければ、わかる相手かどうか判っているはずだ。それにもかかわらず、「家族のことば」を使って宣伝する意図がわからない。しかも、冬を迎えて、あちらは、ボロを来て、道端の草を口に入れながら、歩いている子供が沢山いるだろうに。ちなみに、私は、今、自分ちの居間で、ストーブの横で、22度の環境でこれを書いているんだ。飢えている人間や、傷ついている人間に手を差し伸べるのは、それは、援助でもなんでもなく、人間の自然な行為だと思う。それを人が自分の考え?かどうかはしらないが、北朝鮮に食料をおくったら、かれらスポークスマンに「いま、この時(ら致事件の交渉?の最中に)そんなことをするなんて!」なんて、言わせてない?かれらの家族のその実の子があちらにいて、その実の子がいる国の大部分の人が飢えている現実をだれよりもしっている立場で、そんなことを言わせる。この冷徹な交渉術は、まさに国家アメリカそのものだ。いつ、そんな国に我が日本は成り下がったのか、とかつい思う。じぶんのとこの家族がクリスマス、だったらみんなクリスマス!!そんな、あまっちょろい日本人がいま、たいへん懐かしく思うのは、自分だけだろうか。北朝鮮の本当にフツーの人間のみなさん、イラクのそういうフツーのみなさん、そしてなによりも我が日本のフツーのみなさん、手をとって、ホントにあったかいクリスマスをむかえたいねえ。。。。日本は本当はそういう国ですよ!。
 。。。第二次世界大戦後の混乱した世界を戦勝国が勝手に取り締まるのは、戦争があった直後で、相手が悪い!!と言っちゃえる時期、つまり勝ったほうに「戦勝の正義」、それこそ戦勝のモラトリアムがある間だけだと思う。国連の安全保障もそういうものから始まったはずだから、その範囲をこえちゃならん。それが21世紀にはいっても、戦後50年たってもそれが時効を迎えないのは変じゃないか。殺人罪だって、時効は15年だ。もう50年たったんだよ。別の国が核をもつのをけん制することは出来ても、国の中にはいってそれを阻止するというのはいかにも変だ。そういう意味で、イラクが核をもつのを、北朝鮮が核を持つのを取り締まるのが国連の役目としても、無理やり国家の領土に踏み入ってよいものか。少なくとも、それが国家アメリカの役目ではないはずだ。なぜ、独立国が、別の独立国を規制するのか。それこそ、なにをやろうが勝手じゃないのか。悪人が核をもつのがいけないという、「悪人」呼ばわりされる筋合いはない。自分だって、広島や長崎で、そして湾岸で核を使ったじゃないか。核抑止力としての核、そのおそろしいへ理屈を一体いつまで、弱者は我慢するだろう。言い会、皆、我々は、戦勝国ではなく、敗戦国だ。本当の意味で意志の自立が必要な時期だと思う。このスタンスから、彼の国々(北朝鮮、イラク、。。。。)の問題を考えてみようよ。もちろんアメリカとも仲良くしたい。それもいうに待たない。問題は我々のアイデンティティにかかわっている。我々のそれは、一も二もなく、「平和」のはずだろう。
 それにつけても、我がニュー相棒のロビンソンちゃん。新しい機械というものは、なんとも頼もしい。エンジンがいつ止まってもよいように、空き地をつないで、飛ぶ感覚がヘリの操縦にはあるが、そんな緊張が、ある程度周りの風景に割けるほどである、という感覚はなにか楽しい。コレクティブ(昇降装置)も改良されているようで、若干軽いのが違和感があるにしても、高度が高いと、低いの間の勾配が自由で、上下左右に細かく移動できる。これこそヘリのだいご味だ。コレクティブ(操舵装置)とコレクティブを操ることで、3次元につながりなく移動できる感覚は、このヘリばかりに12年もかかわってきた迷パイロットとしては、なんとも不思議な感じを覚える。北側には10mを越える木が20-30m先にあって、離陸は出来るとは思っても、まず、そんなことする気もしなかったが、なんと楽々こなしてくれる。主にエンジン出力の向上のせいだろうが、いままでのオーバーホールを重ねて、それも寿命が迫った機体とは明らかに違う。目茶苦茶金はかかるがなんとも頼もしいパートナーだ。そこで、いつもの独り言。「こういうものを作るアメリカ人と国家アメリカは、どうしても一緒にならないんだ。」どうしても。機械の信頼性だけじゃなく、使いやすさまで、なじんだ感じまでいれると、どうしてもいま、機械はメードインアメリカだ。今さっき言った「国家アメリカ」と機械屋さん「アメリカ」どうして、おまえは一緒じゃないの!!!
 目を転じると、貧困や戦争がゴロゴロしている世界に棲んでいても、ガンやら骨折やらで入院し不自由な生活をしている人が沢山いる近くに私はいつもいる。健康であるのに、満足をしない自分が神のこらしめの対象にならないはずがないような気がいつもしている。病気を見る側だと言って、患者にならぬ保証はない。世の中、「安全」というとえる場所はないんだ。といって自分を納得させてはいるが。まあ、病気に関しては、よく知っている分だけ、罹りにくいということはいえるかも。しかし、自分の運命をコントロールは出来ないとすれば、幸せに浸っているのは怠慢だし、どうせ自分もいつかそうなる、と思って、恐怖から無為を決め込むのはかえっも傲慢だ。先日チャリティーバサーをやったら、子供さん2人が参加して、自分たちの持ち物を売り、その売り上げを「全部」寄付していった。慈善団体から感謝状をもらって喜んでいたが、その純真な行為すら、私のひねくれえた心は、考えることを始める。。。 彼らにとってのお金とはなんだろう。お金の大切さを知ること、それが人を助けることも、滅ぼすこともしっているんだろうか。人を幸せにするものなのか、不幸にするものなのか。それをすべて知ったうえ献金することは、12歳の少女達にとって簡単ではないはずだ。けれど、献金する、という行為を行ったことがいかに立派なことか。普通の人間は自分のことで手いっぱい。その一線をこえようとしない。それを恐れている。けれどもそれだけではいいはずがない。寄付をする、という一線を越えた行為はやはり、受ける側からどう思われても、人の行為として大変立派なことだと思う。このこと自体が政治的、と考える人がいるとすれば、それはその人の心がすこし気になる。医者としては。自分も含めてだけどね。多くの人々、自分を保つだけでも精いっぱいの人が大勢いる。パニック障害などという名前がついていて、場面恐怖、人間関係恐怖、いろんな恐怖や不安で大変な日々を過ごすわけだ。もっと直接的に、戦争の傷、砲弾の破片それらによる外傷後ストレス症候群の人もいる。人を殺すことによる戦争神経症。適応できている人々もなんならかのストレスの渦中にいることは間違いのないことだ。そんな世のなかでも、「思いやり」の心をわすれたら、人はヒトになってします。みなさん、もうすぐ、クリスマスだもんね。(02.12.03)



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