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→去年いまぐらいから、コイズミは進む!とか、改革なくして前進なし!とか、いろいろ言い続けているおじさんがいる。私も含め、100人中100人がこんどこそナニカやってくれるかも、と思ってからもう一年が経つわけだ。その言葉は、その後小手先の変革と沢山の軍事的変化をもたらした。もっとも、例のテポドン騒動からと言うもの、なにかしらアメリカは日本にも軍事力の増強と防衛への積極的参加を期待するようになっていたから、軍事での変化の始まりはもっと前だ。その上経済が悪化し、失業者が増えていく中で、「自衛隊が軍隊じゃない、っておかしくないの」、とか、そんな開き直りを我が首相が言うようになったわけだから世の中進歩?したもんだ。
    で、今度の有事立法が通るとどうなるか。戦争やテロが起こったら、市民の救急病院はアメリカさん優先になったり、野戦病院として接収されたり、あるいは、大きな工場の空き地や駐車場は戦車の置き場にされたりして、我々の身代を差し出さなけりゃなくなる。いやだといったら懲役だぞ!北朝鮮のマスゲ-ムを遠い国の観光スポットのように感じているあなた。気がついたらあなたもユニシロ印のモンペとか履いて、炊き出し当番を命ぜられたりしているわけだ。なにか彼の国と我が国との軍事的衝突が現実になりつつあるのかも知れない。有事法制だって、アメリカの影があるから、隣国は文句を言わないんであって、その影がないって判断したら一体どうなることやら。靖国参拝はその辺が微妙にからんでいるようだ。ビンラディンとテロとの戦い。イスラエルとパレスティナとの衝突。これらは、予期せぬ第三次世界大戦か、なんかの予行演習と見たほうがよいのかも知れない。日本も予行演習に参加したじゃないか。そんな物騒なよのなかになってきた。
  次には情報も操作されるだろう。プライバシイ保護法案。個人の権利を守る法律とか言っているが、有事の際の情報操作ができるようになるための法律だったりして。盗聴法もまたしかり。コイズミになって、これら有事(間違っても、私の使うそれとは違って、戦争という意味)という名の国家統制に再び我が平和国日本がはいりつつあるような悪寒がする。我らがおっさん、見た目のソフトさとは裏腹に中身はゴチゴチの国粋主義だったりするかもね。まあ、今どきフランスでもドイツでも似たようなもんだけど。何故か人心が排他的にうつろっていくことが、目に見えるようになった世界の今日この頃ではある。これも長く続いた少数にのみ有利な平和のなせる技といえるのでしょう。私はいつも思う。なぜ、武器力で、人は人を縛るのだろうか。鉄拳パンチだけじゃだめなのか。相手を殺すところまで追いつめなければならないのだろうか。半世紀生きてきても、私には理解できない。
   下世話なところで、景気の話。これ、すこし息をつき始めたようにも見えるが、ハラオ君のとってきた公共工事が生活の糧の北海道。目に見えて巷には仕事がなく、生活がひっ迫してきている。老後の蓄えのタンス預金も、そろそろチビチビ目減りが始まって、穴あきチ-ズ状態になりつつある。そんななかでも、町の風景や人の表情に際立ってカゲリがないのは日本的じゃあるが、けども、すこし長い時系列でみるとそうでもない。「ちまた」、なんてのは水物だ。函館に6年すんでから今の苫小牧に8年。以前、函館の大門という繁華街の衰えゆく様をつぶさに見た。夜の歓楽街を行き交う背広姿のオジサンに声をかけるチャイナ服姿の女性に象徴される日本のリ-マンの繁栄の時。それは去って久しい。少し前には、そんな客や日曜の買い物客目当ての老舗の商店のシャッタ-が降りて、よるところもない風が一気に吹き抜ける場所になっていた。同じようなことが札幌の衛星都市、我が苫小牧でも起こっている。ネオンのランプはすすけて侘びしい。やたら新しい街路のタイル歩道がわざとらしくみえる今日この頃だ。
   今、すでに訪れている現代を生きていくには、特にそれが国民の代表達であってみれば、金にまみれても職業的代議士の家柄がそれを守り、自分自身は純培養されて、政治の帝王学とやらを学んでいながら、実は庶民なんだみたいな勘違いの顔をして、庶民の居酒屋に他国の大統領を連れて平気で現れるような坊ちゃんでは困る。そんな人たちに日本の改革を任せるだなんて、そりゃ到底無理な気がする。彼らは大門を闊歩したリ-マンの汗臭い靴のおかげで暮らせた人たちであり、いわばリ-マンのプリンスだ。人の屍を越えて歩むことを帝王学として学んだ彼らに、今の時代は読み切れない。
  この観点から横に目を移すとあのユニシロが大変そうだ。ハードバンクも。ナスダックだって?ドーナルのダックだったりして。一体良いのか悪いのか、一昔前の時代を読んだ賢人達もここに来て失速し苦戦しているようだ。「銀行」というものが、どうあっても旧態依然の方法で乗り切ろうとしている姿が重なる。彼らも、「急成長」が終わって「守り」の側に回ると、銀行の体質に似てくるのかも。常に「攻める」という、心臓が痛くなるような攻撃的戦術は我々日本人のニガテとするところだ。皆知るように、かってのアメリカはその攻める攻撃の騎手だった。
  ところが、成長のため、自己変革ばかりしているとやがて自分を見失う。それでフト気がついたときにはスラムに投げ出されるハメになる。投げ出されて始めて人の愛や暖かさを求めるようになり、一つの個=パーソンとして再び立ち上がって来たアメリカ人達。かれらの今の強さはそんなところから来ていると私は思っている。断っておくが、それが良い、と言っているわけではない。社会の保護システムの庇護の中で、個人の生活を楽しんできたヨ-ロッパ。常に貧困と先進国の種々の暴力の中で生きてきたアジアの人たち。そのどれとも違う姿を日本は持っている。コンピュ-タに例えたら、これらの人々は、IBMであり、他のWindowsをのせたコンピュータであり、マックであり、シャ-プである。これらをノ-ド(結び目)で結び、ネットになっていく過程で、共通の通信手段(プロトコ-ル)が決まって来た。アプリケーションソフトも決まる。使いやすさが目安だ。この現在でのソリューションがTCP/IPであり、JAVA言語なんだったろうと思う。
  そういうこと、つまり自国のノードを形作って、日本の個性と、世界のネットとを結びつけることが、今の首相に出来るわけがない。なぜなら、彼は、いにしえの大将のように、重臣の意見をまとめることのみを自分の本分と信じていて、自分の言葉で我々国民に語る意志を持っているように見えないからだ。
   話を戻す。さて、スラムに投げ出されたアメリカ人は、おのれの個の生活を再体験する。そしてその経験から、それ、つまり個の生活を守ること、同時に社会への貢献をすることをバランスするコツを見いだしたんだと思う。つまり、我が日本の首長もここいらで奈落に落ちて、巷でバカといわれ、再び立ち上がるところから世界を見つめれば良いのに。ボッチャンのままでは、日本ノードを世界ネットにつなげられない。七転びしている暇はないから、一転び二起きだ。急いで実行。そう、どっかの議員さんのように、議員の肩書きがほころびても、職を失わないように、ただ忍ニンにんにんとこらえている姿は、不良債権の主、銀行の姿でもあり、ひいては、今の日本の社会のあり方そのものだ。一番大切なのは、過ぎ去ることを願って目を閉じていては何も生まれ変わらない、と言う認識なんだと思う。だれかに痛めつけられたら、リベンジしなくてはならない。転んで起き上がる、そのための地面を見つけなければならない。それは、飛び降り自殺する人が、死ぬ瞬間に焼き付けるだろう所の「地面」と質的に一緒のものだろう。生きたい!私は死にたくない。我々が本当に生きるためには、死のうとする人が、死ぬ瞬間に見るものと同じものを見るほどの決断と苦しみが必要ということ ではないのか、と言う気がする昨今ではある。我が身を引く。わたしは、夜逃げするギリギリまでくるしんだ。夜逃げしてからも苦しんで、個で生きようと決心した。それが、何年かたち、いつの間にか、また競争社会に戻って妻の信を失った。本当の所は自分だけで苦しんで、妻の人生を省みようとしなかったからだが。そういうスラムを経験した今、診療というものが、売り物ではなく、自分の生活の大きな部分であることに気にようやく気がついた。私は、個で生きて、人のためになれるようにと、試みている。このホームもそういう意志を表現したつもりだ、と言うことは以前なんどか話した。こういう書き方をしたからと言って私が世界一苦しんだと思っているわけじゃない。苦しんで良かったと言っている。
   うーん、最後は自分のことになった。個の時代、甘えることなく、自分の力で生きようとしてみたい。どうでしょう。皆さん余裕がないとは思うけど、成果は関係なく、と言うことで。その意志がなければ、今新聞や、テレビで描出される、人々の生き様が、我々の生き様のミラ-イメ-ジとなって重なってしまい、あまりに悲しいと私は思うのですよ。今度の「一言」もなんか重いなあ。やれやれ(02.5.9)
 


→ずいぶん、あいだが開いてしまったが、やる気が無くなったのではありません。とにかく、時期外れの風邪のおかげでずっといそがしくて。それと、もっと使いやすいようにホームページをupdateしたい余り、かえって手がつかないし。とりあえず、「ちょっと一言」だけでも、と思いまして。でも一番の原因はワールドサッカーでした。特に、イタリアー韓国戦はいままで見たサッカーの試合の中で一番おもしろかった。最初から最後までドキドキしたね。今日はこれらの戦いを受けて自分なりに日本を考えてみました。
 一昔前にはやった言葉に「ファジイ」というのがある。今はあまり聞かれない言葉になった。「あいまい,ゆらぎ」,などと訳されるこの言葉。実は現代の日本の世相そのものである。日本の戦い。興奮した。予選リーグはすごかったね。普段あまり見もしないJリーグで、中田のプレーに目がいって久しいが、当時のイチローと彼はマンネリ野球やサッカープレーの中で目にうろこだった。普段見もしないのに,新聞のスポーツ欄で2人のチェックはいつも自動的にしていた。それほど,ほかのジャパニーズと違う彼らが,数年後世界の頂点にいる。かれらが並と違うのは,一見派手ではないが、絶対的な実力を盾にした、「個」の存在感だろう。それはファジイなフツーの日本人にはない,外人的なソリッドな感じからだ。眼光鋭く,記者にこびない、わがままな感じ,自分を大事にして,つねに努力する姿。あいまいさがないその姿が新鮮だったわけだ。なまいきだけど。
 いちばんうれしいのは、それが,何年か経って経験を重ね,目がやや柔和になった時点で,つまりフツーの日本人に戻って来た時点で、なおかつ世界の頂点に立てている点だ。中田を例にとろう。忘れもしないあの大事な場面でのPKの失敗。みんながツバを飲み,彼に願いを託した大一番での失点。それからというものは,大事な場面での力んだオーバーシュートばかりが目立った。今回も最初はそうだったが,決勝進出の大一番で、見事に跳ね返した。あの女性に人気もののベッカーも、 ブラジルのロナウドも似たような感じだったね。これらは,もっとも優秀な人間のゆらぎ,の姿でもある。
 脳の血管は,生理的に様々な自動制御がなされている。血圧を一定に保ち,酸素の供給を十分に保つ生体の知恵だ。司令塔が倒れたらなんにもならない。ところが,緊張のあまり,つまり自律神経の過緊張のために時々ゆらぐ。それはめまいのような感覚,錯覚といってもよい,を引き起こす。一瞬のフワっとした感じ。だれしも覚えがあるだろう。免疫の過緊張がじんましんとすれば,自律神経の過緊張がゆらぎ,だといってよい。この状態が長引けば,脳の虚血と再還流をくりかえすから,ちいさな梗塞を生じる。微小循環では日常茶飯だから,個々の脳細胞は毎日死滅,再生を繰り返している。これが、「ゆらぎ」の正体だと私は思っている。これがあまりに持続すると修復ができないほどの大きな梗塞が出現し、その個体は死に直面するわけだ。人は、ゆらぐ。それを克服するか、梗塞するかは、運や、脳の制御のパワーによって個人差があるのだろう。日本人は緊張が強い性格だから、ゆらぎもおおいのかもしれない。(このあたりの十行は論文で公に認められていない自説です。あしからず)
結果としては、日本は決勝の1開戦で敗退。日本も頑張った。すべて過ぎ去ってみれば、誤審の多かったことも、フランスの敗退も、すべてがあるがままで、それはそれで間違ってなかったことがわかる。韓国は、日本よりすばらしかった。そして、それ以上にトルコは強かった。ランキングでは、日本の順位より韓国が上。そうだろう、と思う。しかし、今回の日本、私は大変誇りに思う。それは、日本の姿で戦ったわりに、成果が世界的だったことだ。いままでは、ジャパンモラトリアム(日本だけの特殊な順位にあまんじること)にあることが多かった。オリムピックの日本の解説者やレポータの言葉。「負けはしましたが、いやー○○君は頑張りましたネー。決して負けてはいなかったですヨー」風の援護。甘えの構造。負けは負けだと認められない日本。これが、ジャパンモラトリアムだった。しかし、今度は、日本的に、つまり、攻めあぐねる、相手の出方をみる、反則を反礼あるいは非礼と考える、自分が特典のチャンスを握った時の過大な緊張など、日本の姿のままで、あそこまでいけた。このことが、私は一番、うれしい。
 1番、2番の世界、あるいは、1番以外の順番はビリっけつとオンナジ、なんて考え方は、日本人になじまない。いま言ったみたいに、評論家やアナウンサーが、明らかに力負けしている日本の選手に、「でも今日はよくやってますヨー」、見たいな言い方をするのは、我慢ならない。実力を無視しての日本びいきが頭に来るからだ。でも今回は違う。負けた、と言っても世界レベルになってるのは、世界のみんなが認めているからだ。ただ、日本は1番、2番を争う精神構造にないだけだ。サッカーが一人でやる競技なら1番になれたかも。しかし、控えをいれて20人近い集団になると無理がある。私はそう思う。日本人と言うのは、ガキ大将から一歩下がってそれを補佐するような、すこし引いた後見役のような存在が一番それ「らしい」。1番になるのは華々しすぎて緊張する。すこしひいて、謙譲の美徳がそれらしい。フランス人のトルシエが日本人の中田にそれを強要した、と言うのが、だからとても面白い。1番は、ブラジルやフランス、それにアジアでは韓国に任せておけばよい。日本人は日本人の「仕事」をすればよい、今回、私は、そう確信をもって見ていた。
 この20年というもの日本は、世界経済で1番、2番とか言われて、おだてられているうちに、ひのき舞台に躍り出てしまってのっぴきならなくなったプーサンのようになってしまったのだ。すべての分野に世界レベルをお仕着せられた。スポーツの世界も経済でも。日本のアスリート達は、そういうタフネスに向いていない。ウエットだからだ。ほんのすこしでも後に引いて思わずゆずる性格では、世界で1番にはなれない。トップアスリートになれても頂点にはなれない。日本では1番になれる人は能力的にではなく、性格的に数%にもみたないと思う。そういう人は極く少数派。そういう人は外国で頑張る。みてると、韓国や中国ではそうではないようだね。だから彼らが4年後一番になればよい。これからは、日本は世界一にならなくても良い、もっと肩の力を抜くこったよ。
 逆に政治はもっと力を入れてほしい。重要な法案が、サッカーの興奮のるつぼ中で,生まれては消えてゆき,あるいは骨抜きになる。あるいは先送られる。私事だけど、医療法改正に関係なく,安い薬をつかい,ワークシェアを取り入れ,能力給で客商売に徹して「町医者」を続けた結果,わが方安庵は、患者さんの支持をうけてやや右肩上がりだ。病気を治すことと,医業を営む事をわけた結果が、患者さんにこのところ支持され始めたと思う。結果、税金は増え,しかも独り身だから控除も最低。サラリーマンなら貯蓄できる部分は全部税金でチャラにされるのに,市営プールでは普通に払って入館し,揚げ句の果て、苦労して払った税金が官吏によって私的流用を受ける。リンチにしてもあきたらないやつらが,国債を目茶苦茶に増発しときながら,デフレの中で経済が下げ止まって,やっとほっと一息ついている国民に増税をし,自分の作ったツケの穴埋めをしようとしているんだからヒドイ。しかもそのお題目が「日本経済の活性化」だから笑っちゃうよね。かれらに「ゆらぎ」はない。世界の頂点に立つアスリートは、一人の日本人であるがゆえにゆらぎ,かれらは「集団」であるが故に、ゆらがない。どうしてかって、日本人は伝統的に、集団になると変身するからだ。ツヤツヤのっぺりした肌にアーモンドのような目を光らせる眼鏡ヅラ、生きた石地蔵みたいな顔のおっさん達がサッカーの興奮の中,静かに増税をたくらんでいる。かれらを支持する官僚や政治家こそ削減すればGDPを1%押し上げることはたやすい,と私は思うのだけれど。
今の日本の政治の仕組みは、すでにグローバル畑の地に落ちている。語る意味もない。日本国は、文化も、風習も、政治も、経済も、今も昔も世界の孤児だ。彼ら官僚や政治家が、今も昔もご自分の「常識」を国民に押し付けることが大きなその一因なのは明らか。いまだもって、黄門様の時代の御代官様であり続けようとする彼ら。今、日本人は、その全員が少し長い「ゆらぎ」の状態の中にあり,ヒーローになれるか、脳梗塞で障害をのこすかの瀬戸際だという気がしている。
毎日毎日、一人ひとりの患者さんをみていると,脳卒中後遺症でがんばっている人の姿はみていて痛々しい,と同時に人間のもつ自己再生の力も感じる。「世間」の中での個の力が弱かった日本も彼らのように、心から再生しようとしてもがく。「世間」の中でも個の力をだすんだ!そう緊張して「ゆらぐ」。さてもさても、バンパイア一家のような日本の官僚や政治家は、その生命がしまいにはきえてなくなるだろう。「お代官様」の世界は、インターネットで象徴されるように,世界は直接ひとりひとりの家につながり,もはや,厄介者でしかないようなこの世の中で、断末魔の叫びをあげている。いったんは主権をとりもどすかに見せながら、やがては潰えていくだろう。御代官様の嫌いそうな、わがまま勝手な若者は、今では陽気に、川に飛び込み、花火をあげて「日本」を連呼しながらしかも、愛国までもするのだぞ。もう、彼ら「御代官様とその一派」がいくら保身してももう遅い。どっかの県のように、県民が選んだ知事を「集団」から排除してみても、もう遅いんだ。一人ひとりの日本人の心と生活、文化と風習。それらは、確実に若者一人ひとりの心の中で生きている。しかも「一揆精神」と共に。私は私で、いままでのやりかたを変えるつもりはないし、みんなも、心から日本人であってしかも「個」でもあってほしい。そのお手本が、彼ら、ジャパニーズヒーロー達だ。
しかも、かれらのようになれっと言っているんではない。かれらを心の誇りにして一歩引いて静かに、しかも一揆を準備する農民のようであれ、と願っているんだ。それこそが日本人の力だと思えるようになった。ビバ!ワールドサッカー、ビバ!ジャパンイレブン!ってわけだ。中途半端がいちばん駄目だ。転ばないように日々人の倍努力するか,転んでも人の倍努力して立ち直るか,そういう岐路で日本,いや我々日本人は選択を迫られていると思うんだ。心に「ジャパン」を抱いて突っ走ろうぜ。もう,役所やタレント政治家はほっとこうかア。ありゃあ、単なる見せ物だもんね。(02.7.7 七夕)


→今日は本業のほうについて少し触れたい。「時代」は診察室にも確実に訪れるものだからだ。
 何年も前から私は茶髪だ。若白髪が嫌だったからだが、これも時代だと思っている。多少気に入っている。新患さんの子供なんかは、きまって、口をあんぐりあけて、ジジーと観察している。医師会の集まりでは、茶髪の中年はいまのところ私だけだから、いきおい多少は緊張がある。ま、それも時代と思ってらっしゃるのか、年配の先生こそ余り気にしない風だ。むしろ、同輩の背広姿の先生方が結構気にして、「・・・先生、あたま、黄色いね」、「はい」とかいった会話が交わされることが時々だ。茶髪は不良だ!、と中学の先生に怒られる生徒の気持ちがする。勤務の先生には、まま茶髪がいる。わたしなんかは、即親近感を持ってしまう。それにこの先生、いまどきの若い先生には珍しく、クールを装わず、「医者」のガッツがあって、患者さん、看護婦さんの人気がたかい。私もめずらしく、この「ご同業」を好きになった。
 最近、その先生の一人にに紹介した患者さんが、不幸にも亡くなった。開放病棟だから、私も主治医の一人ということでたいへん辛い。その先生が、彼女がなくなったベッドサイドでも茶髪だから、茶髪嫌いな御主人だったら、先生辛いだろうと思ってしまう。かくして、医者が茶髪になるのはこれほど重い。だかこそ不良のはずがない。これは時代なんだよね。
 うちのホームページも古くなったから更新作業をしている。やっていて思ったことがある。特にクリニック部分を更新するとき、クリニックの紹介もすこし丁寧にしようと思ったが医療法との兼ね合いもある。
   端的な言い方をすれば、たとえば認定医であるとかないとか書けないとか、宣伝とはっきりする文言とかは、なかなか無理だ。名刺とかは大丈夫なのに。インタネットでの情報は、いままではある意味「私信」とか「個人空間」のようにみなされて、官憲の手が入らなかったが、最近は、自治体の有事接収が認められたり、盗聴法とか個人保護法が制定されないまま、皆背番号制が導入になりそうだとかそういった時代だ。有事にそなえて、ちゃくちゃくと国の個人への介入が進んでいるから、あんましかってやってると、突然特高警察がくるかもしれない。そう思うと、さすがの西本先生もやや身がすくむ思いがする。自分的生き方からすると、これはしかし、時代に則していないじゃないか。医者選びの材料をかいてはいけないなんてヘンだ。医者が宣伝することになるからだ、という前提の考え方がそもそも大時代的じゃないか。これも、患者への情報、広い意味でインフォームドコンセントだよね。
 かたや治験とおおきなデータ取りの集団統計でドンドン新薬や新治療をうちだしてくるアメリカ、そのすべてが使えるわけじゃないが、キチンと規制専門委員会でチェックしながら、使えるものは使っていく。製薬会社は、開発力をますためにM&Aで大きくなっていく。日本的に、企業秘密、なーていっていたら間に合わない。時代を読むと読まない違い、時代を作るアメリカと、とりいれることしかしない日本の違いは、とても大きい。といいつつも、ヤーイアメリカさんもバブルダー!それみたことかいな、とか言いたくなっている自分に気づいてやや恥ずかしいかも。
 去年水痘が流行ったとき、新患のおかあさんがどなり込んできたことがある。
「せんせい、なんで、ウチの子に、抗ウイルス剤つかってくれなかったんですか?おかげで、ひどくなったじゃないですか。今日、かかりつけに先生のところの薬の紙みせたら、どうしてだろうって言ってましたよオ!」
「ごめんなさいね。うちでは、たんに風邪薬とカチリ(湿疹のぬりぐすり)しかださないんですよ。説明しませんでしたね。それで水ぼうそうはどうなりましたか?」
「まあ、いいですけど、3日でなおりましたから!」ドスドスドスと母親は出ていった。
「・・??!」
 うちでは、あいかわらず水ぼうそうだろうとおたふくだろうと、風邪薬をあげている。あの一件から、事前に私の考え方を伝えて了承を得るようにはしているけど。インフォームドコンセントは大切ですからね。本当のところは、昔はそれでなおったんだよ、というのと、帯状疱疹(成人がかかる水痘ウイルス感染。水泡が集まった感じのひどく痛い発疹が主に肋間の神経に沿って出てくる。後に神経痛が残ったり不快な障害がのこりやすい)が最近珍しくないのは、水痘の感染が不十分で、抗体のできかたに影響しているという持論があるからだが、こいつは学会で証明されてない、自分の治療のカン、みたいなものはなかなか新患さんには理解されないから、よく見知った患者さんじゃないと話せないし。風邪薬をだすときもそうだ。しかし、ほかの商売と同じで、自分のカンはとても大切だと思う。
「おかあさん、どういう症状ですか?」
「熱はないけど、セキと鼻水があります。」
「いつから?」
「昨日からです。」ええーと、今日は土曜日。月曜日が風邪引いて4日目、ということになるなあ。そこで、「かぜぐすり」のワンセット、つまり、抗生物質と鎮咳薬と去痰薬をだすことにする。一度再診になると、うちでは「薬のかみ」をあげないから、母親もなにも言わないか、薬を渡す時の説明で質問が出たりするんで答えやすいが、初診では内容の紙をわたす。これがなかなかむずかしい。
「あれ、先生、セキはないってもうしあげましたけど?それに鼻水ドメは?」
「はいはい、明日は日曜日ですからね、念のため。風邪ですから、セキがでたらこまるでしょ?それに、そのせき止めは、ノーミソに働くから、少し、静かになる。風邪は安静第一ですよ。鼻水は、最初あまり止めないほうが良いと思います。セキも鼻もからだの抵抗の証拠ですからね。」
「はあ?!・・でも先生、抗生物質は? ○○先生は風邪はウイルスだから、抗生物質はだされませんけど。」
「そうですか。だいたい3日もかぜひいていると、のどにバイキンつくことが多いですからね。それでです。」
「はあ・・・」
 内科はともかく、こどもさんとおかあさんは、観察していると、だいたい、新患の場合、1-2回来てから、しばらく来ずに、数ヶ月経って、また戻ってこられる。きっと、あっちとこっちとくらべて、公園やら保育園の送り迎えで情報交換してから、だれかウチの患者さんのすすめとかで、こっちにするんだろうな。左様に、定着してきてくれるまでに半年かかるのが最近のお母さん動向だ。インフォームドコンセントは一回ではすまない。「医者のクスリ」の意味合いまで全部話すとすれば、むしろ当然だ。それをむかしは、「医者と患者の信頼」といったんじゃなかろうか。
 こういうやりとりを受けて、このあたりをホームページの質問箱に Q&A例題集としてすこしずつ書くことにした。最近のお母さんの動向として、メールは必須アイテムになりつつあるからだ。御近所のゆきだるま先生(看板のicがゆきだるまなんです)のそれなんかは、ずいぶん充実してきた。これも「時代」だ。うーん、しかし、アフリカでゆきふったっけなー!?そうか、キリマンジャロの雪じゃった!?
 「時代」、時代遅れ、時代に乗る、そして時代を越える、いまや職業の生き方一つ、なんともかじ取りがむずかしい。思い出す・・
 精神科の父はやたら30分もかけて患者さんを泣かすのがうまかったが、興奮して、滔々(とうとう)と持論を述べている父と、その前で、さめざめと「気づき」に涙をながす患者さんの姿が目に浮かぶ。手伝って電気ショックの押さえなんかやってたし、時々みたものだ。私も精神保健医だからことわれないで、不登校のこどもさんの心療を何人かしているが、私は、患者さんに感情移入してしまって自分が泣いたりしている。「き、キミのいうことが絶対正しい!」これでは治療にならない。この癖があるため、私は、精神科の看板をあげないでいるんだった。
 時代にながされるのではなく、時代にいきる、あるがままに生きる。その工夫が今、すべての職業で、大変求められている気がします。
と、漱石の有名な文節が自然と頭に浮かんできた。(ハイ!)「情ニサオサセバ、流サレル。」(ハイ!)「智ニサオサセバ、カドガタツ」
まあ、今流に言い換えれば、「情報ながさなければ、カドが立つ、知恵がなければ、流される」でしょうか。皆さん、ウナギたべましたか?(02.7.28)



→もどります(御意見メ-ル送りたい方も)