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情報という名のエントロピ-とコイズミ内閣の関連の巻
→エ-,2月に浜町クリニックを閉めることにして,3月は,その案内とか,引っ越し手順に時間をとられ,4月は4月で,その残務に追われて,大変忙しく過ごした。この「ちょっと一言」も2ケ月ぶりだ。
99年8月から今年の3月までの1年7ケ月は,時間との戦いだった。なにしろ朝起きてから凍りつく道を飛ばして13KM先の「浜町」にいき,午後4時になったら,30分以内にトンボ帰りの毎日。現場じゃなくては,その大変さはわからない。それでやめた,と言うわけじゃないけど... ...前にも書いた乳がんのサッチャンが亡くなったら,なぜか急に「もういいや」と思った。「ずっと面倒見てよ-」「わかったよ-」という会話。それの持つ重み。そのクビキが外れた。重症な患者さんが櫛の歯状態で一人抜け二人ぬけ。いまほとんどみんな元気なじいさんばあさんになってしまった。それで「浜町クリニック」の意味がずいぶん減った。若い人たちは他に医療機関がいっぱいある。7年付き合ってきたじいさんばあさんを見るのは,往診すればすむじゃないか。それが結論となった。なにしろ因業大家は,フルに使っても3時間に短縮しても同じだけもらう,というのだから,理屈にはなっても話にならなかった,と言うこともある。むしろこの方が大きかった。
ソウコウしているうちに,野球と政界は面白くなった。なにしろ,総裁選挙の予備選挙はビックリ。...かつて,もと警視総監みたいな右よりの人材がのしあがってきた都知事選挙に社会党の人が勝利したとき,ちょっと面白くて一票投じた。それ以来選挙というものと無縁だったのだけれど。そんな人間から見ても,地方の自民党員の「キレタ」状態は,正直とても驚いた。例の人気マンガ「嶋耕作」を思いおこさせる。彼が部長さんになってからは出世しちゃったから読んでない。かつて課長さんの時,中道でマイペ-スの彼の部長が,結局取締役になったことがあったと思うけど,「派閥の論理」一色の自民党員自体が自己否定するなんて,こんな面白いことは,ない。私なんか,選挙権を行使しないんだから無党派層にも入れてもらえないが,「好き勝手言えて,派閥なんて怖くない自民党なら,大勢いるだけいいか」とか思って,自民党にはいる若者が増えそうなのは想像に難くない。
ところで,我が日本には「ウラ」の考え方がある。小泉さんにもウラがあるだろう。表の顔だけの政治家なんて,世の中ナンボ変わってもいるはずはなく,表だけの政治なんてキモチすら悪い,とは思うけど,オブチ君が沖縄のサミットをしっかり用意したのもいつぞや評価したっけ。ことほど左様に,ウラばかりの自民党がオモテの顔を持とうとするようになったのは時代と言うものだろう。それにしても,この前首相,あれはすごかったねエ。あれほど「ウラの本音」を口にできるのもすごいワネ。帯電。プラスとマイナス。放電はそのバランスが崩れて起こる。モリさんはプラスが1でマイナスが9だった。こんどの首相はプラスが9でマイナスが1だというのが,前評判(一応話だけだから...)。帯電は結局プラスマイナス0で落ち着く。そんなもんだ。あまり過度な期待はまた首相の梗塞をまねくぞ-。
イチロ-。彼はスゴイ。最初プレッシャ-でコチコチになったとき,例のナカタのPKを思い出させたが,それにしてもこの二人,やはり国際級だ。もひとりの大根バッタ-もそれなりにやってるけど。イチロ-の球種に対する「アワセ」の能力は素人目にもすごいものがある。3割とかんたんに言うけど,一試合4-5回自分の番がまわってくるとすると,ある試合で1安打つまり20-25%がアタリだとすれば,我が「帯電」理論からすると次の試合に75-80%,すなわち3-4安打しなくちゃいけないわけだから,1-2打席相手の観察をすれば,3打席からは全部叩けるくらいになるわけで,とても常人には無理だ。だれかさんが,一試合20-25%くらいあてて大騒ぎしているのとは,S&P格付けでAAAとC位の差がある。とにかくすごいことだ。何十年もチラっとしかみなかったスポ-ツ欄を最近はまっさきに読む自分に苦笑。
そんなこんながある間,クリニックの中であくせくだけしてた訳でもない。4月のウチの休みには旅行には出かけた。ヘリの練習でハワイだ。そこで日本人の教官がやってるOffshore Helicopterというヘリの運行・教育会社がある。そこでいつも訓練するわけだが,4月のハワイは風が強く,局地的にハレたりクモったりする不安定な天気だ。そんな中でオ-トロの訓練が出来るわけで,国内だったらまず,飛んでくれないから,大変勉強になる。それにしてもこういう中で練習すると,この小さなキカイが実によくできていることに驚かされる。これを作ったのはアメリカだ。そしてそれを越す技術力がソ連やインドにある。日本というのは小さな国だ。ワドル艦長の事件。結局,軍事裁判を司法取引で免除になった。軍人は軍人であるかぎり通常刑事裁判では裁かれないから,なんの罪もない民間人を軍人が殺してもゴメンといえば,殺人罪にはならないというわけだ。民事で賠償請求するしかないのだろうか。日本ならどうだろう。これもアメリカだ。アメリカ陸軍の練習飛行場で軍人の飛行機の合間で訓練しながらの帰り,アリゾナの上で,ホノルル空港への侵入許可を待っている自分がいる。心中複雑,とはこのことをいうのだろう。はっきり感じるのは,キカイ,とか科学技術とかで,またまた日本は,世界でとるにたらない小さな国に戻ったという実感だ。昔カメラで今ケ-タイみたいに,付加価値的分野で名をうるんじゃなく,もっと生活に密着した基本的な生活レベルの向上をなにがなんでも前進させなければ,21世紀にはいったって,なんか意味がない。日本ガンバレ。
さて,5月の連休中も通常どうり働いた。患者さんもまあまあ来てくれた。病気というものは,時を選ばない。だから医者が「祝日」をやすむのは変だ。とは言え,医者も人間だから,休暇なしでは生きてゆけない。第一,銀行とか役所とかにもいかなきゃいけない。だから自分の休日に,たたき起こされるのもヘンだ。そういうことから,日曜と木曜を完全にやすんで,あとは,晦日とお正月の2日と7月の海の日以外は祝日をあけている。職員さんの代休の意味も兼ねて4月と9月に5日づつやすむ。この診療時間に変えてから,最初は皆辞めるかと思ったが,ちゃんといてくれている。思うに,人がどう言おうとも,「自明の理」は存在するんだ。それをわかる人もいるということだ。それが,わかるような場が大切だ。自分ンとこはそうだから,だからエライといってるんじゃない。もし,エライなら辞めないウチの職員だ。変化に対応しちゃった。
前にも書いたけど,「当たり前のこと」への回帰が,21世紀にはいった今の日本に必要だと思う。英語ができないのは昔から。最近は加えて数学もダメになった日本。いずれも,「ゆとり」の学習ナンテ言って,自分だけは東大をでた官僚が,勝手に時間数を減らした結果,「コミュニケ-ション」と「コンピュ-タテクノロジ-」の二大潮流から乗り遅れた日本。ヒ・ニ・ク以外の何でもない。またゾロとりもどすには,政府が出てきてコンニチハ,ボッチャン一緒に学びましょう,ってか。そうじゃないだろう。我々一人ひとりが,ひとりひとりで行動できて,ひとりひとりのIPアドレスをもって世界につながることだ。自己責任というか,自我の独立というか。「日本の教育」をド-コ-のもんだいじゃない。で,うちの職員さんたちをみていると,「場」次第でみんなイチロ-のようにもなれるんだ,と思うね。政府は教育を変えるのではなく,考えれば実利がある「活躍の場」をあたえるべきだ。アメリカがインタ-ネットを開放したように。「個人の自我」意識の変革こそがひつようだ。それをまたまた「教育システムの改革」では,さらに世界丸に乗り遅れる。
ところで,インタネットでの立ち後れは,通信費のみにあるように言われるが,上に話した視点から見ると,次のようにも言える。つまり,ある学会では,その学会に属していない医者にも素人にもアクセス権のないホ-ムペ-ジをもっているんだ。残念ながらわが苫小牧の医師会もそう。セキュリティ-やプライバシ-への配慮だろう。けれど,「アクセス権」は,個人の財産をまもる場合に限定されるべきだ。情報を非公開でインタ-ネットに乗せるという「意識の偏屈さ」が,のびるべき日本人の一人ひとりのパワ-に待ったをかけている。システムとはウチワの結束ではなく,ひろく情報の拡散を使命としなければ意味がない。ところが,拡散するシステムというのは作りにくい。もしあるとすれば,アメリカのフラ-さんの言うような,各要素が閉鎖的に結合する球体のようであり,小さい体積と大きな表面積をもつもの,つまり球面みたいなものがシステムの最小且つ最大のものだろう。これが,エネルギ-の効率だと,彼が言っているように思えるが,難しいことはわからない。で,分子とは,宇宙とはそういう球体であり,同時にエントロピ-の無限の増大をもたらす拡散する存在でもある。生命科学で表現すれば,たんぱく質もそんな形だ。DNAはどうだろう,ジャックと豆の木のハシゴのようにどこまでも延びる形をしているじゃないの。それは「情報」だからだと思う。生命や宇宙のシステムは,また,それ自体が情報というエントロピ-を持っている。そのことを理解できないままの日本の知識人程度では,もう欧米に再び追いつくことはない。じゃ,ダメじゃん。否。日本人は日本人であればよろしい。頑固で東洋的,昔まんまの人間,それも日本人。でも西欧をまねする人も日本人。まねするからには,意識までも西欧をまねしろ,日本人!とも思うのデ-イ!。ウ-ン,今日はチト内容そのものが固かった。ゴメン!(01.5.6)
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緊急提言ー意志と道具は正しくつかえ,の巻
→私の父は精神科医で長いこと精神病の患者や精神遅滞児の治療を広島でやって来た。今は自身が脳血管性の痴呆で治療を受けている。その父は私同様、ややはぐれたとこがあり、脳波の導入や、フランスは近代精神医学の父と言われるピネ-ルを大変尊敬し、自分の精神病院も措置入院で自傷他害の恐れのある増悪した患者の特別室を除いては鉄格子をはずした。私も職員とよく逃亡した患者を探しにいったものだ。目の前のため池に入水したものもいた。また、障害児の教育に熱心で、イタリアの女性教育家モンテッソーリの教育を障害児にも健常児にもとりいれたりで、その功績を認められ、受勲したこともある。有名なドクトルマンボーさんの先輩だったため、彼の本にN先生として登場している。私とは意見が合わないし、ついに袂を別つ形にはなったが。私はなんの役にも立たないふ抜けだと思う。そういう気持ちは前からあって抗しがたいにせよ,このホームページでも鑑定医としての気持ちがうずいて、いろいろ取り上げてしまった。
神戸しゃれこうべ事件。これがおおきな,エピローグになった。DSM分類(精神科で扱う疾患の国際分類。アメリカ精神科学会作成)からはずれて、精神分裂とか内因性と呼ばれるより素質の強い原因があっての行為,情動の異常ではないかと見たことはずっと以前のべた。日本の巷に広がる「孤独病」。症状は,孤独,おせっかい,お人好し,接触障害(周囲の人との距離が保てない)があると言った。いちばん問題としたのは,知と情の一体的変動や爆発がある。特に親しい(my side)の人への極端に厳しい態度や悪言雑言が問題とも言った。これらの環境性素因は精神の健常(!?)なものだけでなく,それぞれの遺伝的素因にオンされるものだ。その後続いたいわゆる「17歳事件」の数々。このときは、別の頁で 問題はナイフであると思ったと述べた。このこらから,法解釈の事が話題になるようになった。その流れからは,精神に異常を来していても,「責任能力」が問えれば有罪にする方向でコトが動いている気がすることを危惧した。それは世間にも敷延されて,いかにも精神の病を理解しない,「異常な精神にも五分の理みたいな」風潮ができ上がりつつあるがこれは誤りだ。などなど、いろいろ自分なりに分析してみたのだった。なんの役にもたたない。
その上こんどの事件。完全思考停止状態である。勢い余って,風邪を引いてしまったほど。まてまて,犯人(病人?)の責任能力云々?刑法の改正?なんだそれ?精神病or性格障害かだと?なんジャそれ。まてよ待てよ,まっとくれ!まず,事実,事実。・・様々な異常事犯が世界で起こる今日この頃だが,この事件ほど,残った人間,つまり私のように21世紀に入って棺桶一直線状態で生き残っている人間の方ではなく,という意味だが、その対局にあるはずの,21世紀を切り開くはずだったところの若い,突然喪失した人間とのギャップを感じた事はない。普通の事件は,どこか「あすは我が身的」な意識で報道を聞く。そういう,「日常性」からひどくかけ離れた,心底無気力にさせられる事件だ。私自身,大変な愛犬家なので抵抗があるが、彼らの死は,まさしくイ・ヌ・ジ・ニである。私が親だったらどうする。「17歳事件」の時に書いたように,異常者は異常者として,正しく,厳しく扱いをする必要がある。「人権,人権」と言って,精神異常者を安易に開放してしまう愚が根にある。法的に措置入院させても,自傷他害の恐れがあるパーソンを通常の入院,退院,通院治療の流れにのせて安堵する愚がある。なぜ,フォローアップを義務づけないのか,保護観察しないのか。テレビでもそう言っていた。その通りだ。あのときも言ったけど,それ以上にまず,犯罪を犯す,あるいは,病気である人の人権を言うなら,それによって犯される側の人権も真剣に問う必要性がある事をもっと明確に社会のコンセンサスにする運動をするべきだ。そして,だからと言って,人の人権を奪ったから病者であっても「責任能力」を認めよう,見たいな安易なリンチ的単純思考による法の改正はもっと恐ろしいと言うこともまた,明確にしたい。自衛の権利,有事に対する危機管理これがもっとも大切で,それは個人の尊厳を失わない方向でなされること。アメリカのように、「・・だから、銃を持ちましょう」ではなく、21世紀型の自衛権を認める運動をするべきだ。私はこの点を危惧して,「今の日本人に出来るか。」これが私のホームページの原点であり,皆さんの真剣な御意見をお聞きしたい点でもある。「17歳歳事件の時の締めくくりに書いたこと。(前述した環境性素因のこと)社会側(被害当日からの被害者や家族をのぞく)も犯人側も共通の素地にたつ自己矛盾。・・人前〔国民や世界)と身内の間〔党内や役所)の私言とか行動の区別もつかない国民性の問題はいまや目茶苦茶に大きな課題だ。その観点から国民審判性に言及した。この国の人々が彼ら「犯罪人?病人?」を裁く権利をもっているとは思えないと言う心配。ナイフとイメージジングの話を思い出してくださる読者の方もいるだろう。・・「アメリカでの若年犯罪は銃をつかう。日本のそれはナイフを使う。いきなり,頭に銃をあて,脳みそをグチャグチャにするのも恐ろしいが,ナイフでいきなりメッタ刺しにされるのもたまらない。人間の視床から記憶の回路には,認知と一対一の大切な機能がある。視床側がマッピングをするとそれを記憶する前に整理し,記憶を圧縮して整理棚にしまう。このプロセスで,後で圧縮を解凍して取りだしても情報の質として,おかしくならないかをあらかじめチェックするイメ-ジング機能が大脳側にそなわっていると考えられる。これらの事件に共通することは一体なんだろう。」是非真剣に識者の人々に考えてほしい。国民全員に考えてほしい。就学年齢は社会にでたてのモラトリアムの時期にイメージの障害を持つ犯人達の共通像。包丁やナイフの誤用。犯人とは無関係の被害者。それにちっとも役に立たない医学と心理学。まったく,その姿はあきれるとしか言い様がない。人が死ぬことをカテに自分が有名になること以外なんかメリットがあるとは全然思わない。それは事故の後出来た歩道橋のようなもの。死んだ人間に役に立たないばかりか、あとの人間は使いもしない。無駄金だ。ついでに道路特定財源なんか、くそくらえだ!本質は,本質は,本質はどこにあるんだろう。これも述べた。なぜ警察官が銃を乱射しにくいか、という問いにある。(最近はそうでもないらしいが。)銃を正しく使おうとする意志があるからだ。「意志=will」をもち、「道具をimage通り」に使え。
なんでもありの世の中。その中で生きることが普通でなくなった人間達が幻の「社会」を築いている。砂中の楼閣。多少とも収入に余裕があり、広々とした庭に楽しそうに遊ぶ子供たち。老人とも共棲して3世代が集う空間、なんて考えてみれば一握りの人々を祭る幻想でしかないことに気がつかない。そんな幻想に駆り立てる今の学校教育より、こども全員に少林寺拳法でも教え、武器に転用できるものは!Dカードを提示しないかぎり販売しないようにするほうが実際的だ。こう言いながら,なんかうんざりして、なみだが出てくる。せめて、天国というところにこの世と同じ現実感が存在し、死んだ被害者達も我々こちら側の人間同様おしっこしたり、ウンコしたり、腹痛をおこしたり、病気になって、医者がみたりできるよう,神様にあの世を変更してもらいたいとお願いしたいようだ。そしたら、そこで犯罪があっても今度は子供たち、きっとうまく逃げられるチャンスがある,とマジ、思う。(01.6.10)
→またまた遅くなってしまった。元気がでない今日この頃だ。と言うのも天気も景気も悪いからだ。天気!これは、アフリカの50℃になった国はもちろん、本州の人にも悪いけど、こちらは、曇天の22℃前後が続いているのである。ひとつきも!地元の民報にも過去最高とのっていたが、たかだか1000mちょいの樽前山もよくて2-3合目までしかみえない。飛べないのである。基本的にヘリは有視界飛行の機械なので、見えないときは飛べない。こんな状態で噴火されたらたまったものではない。強い風や雨も困るが、海霧による視界不良も大敵の一つ。ストレスがたまることこの上ない。
私は参政しないから、政治の事はあまり書かない。けれど今の状態はどうだろう。首相が人気者であることは基本的に良いことだと思う。歴史の問題。例の○○社の教科書。あれもすごいね。検定制度、その意義が、言語の自由を保証する意味ならそれはすばらしい。しかし、教科書になると。従軍慰安婦の問題や南京大虐殺の問題などの記載がない、とか、大きな問題はもう語り尽くされているから、ここでは言わない。けど、この夲はすごい。まず、プロロ-グ。どこで人が死んだとかの事実だけじゃなく、それがどう社会に影響を与えたかを考察する。そうすると、その時々の考え方や環境で考えが違う、それを考えるのが歴史である、と書いてある。フムフム。歴史は民族によって異なる・・・で、歴史を固定的に不動のものと考えるのを止めようとも書いてある。フムフム。そこまではいいけど、本文にはいると、ウウ-ム。一つ一つのセンテンスは熟慮してあるようで間違いが見あたらないが、たとえば、同じセクションに並ぶ10のセンテンスは、切り貼りのコピ-のように羅列してあって、脈絡がない。つまり思路(考えの筋道)がない。まるで精神科で言うコルサコフ状態(下記注あり)なのである。意識的コルサコフなら悪意。そうでないなら痴呆である。すくなくともプロロ-グに全然反する。そして時々印象がはいる。たとえば日清戦争の部分。当時朝鮮半島を列強が南進すれば、日本に驚異になることは事実だった。当時清朝が朝鮮半島の主権を握っていた。「..それ以上におそろしい大国は、不凍港を求めて・・・ロシアだった。」おそろしや、オソロシヤ!
そりゃ日本にとって恐ろしいのはわかるが、教科書に日本を中心の尺度で書いてもいいじゃないか、という主張は総論として理解できても、だから、日本にとってオソロシイ国=ロシアだった、とほ〜んと、無知に近い人間に教える訳だ。恐怖は、時代をこえる。
とにかく、全体に単に史実をキリハリ状態で羅列しといて、時々、この「歴史認識」がはいる組立がすごいのである。その日清戦争での勝因についての記述。「..日本の勝因としては、軍隊の訓練、規律、新兵器の装備がまさっていたことがあげられるが、その背景には、日本人が自国のために献身する「国民」になっていたことがある。」と断定している。自国の為に献身するイコ-ル「国民」とは。サブい。..わたしが、仮にこのことの軍の統轄官でもしていて、戦争状態であれば、こう書くだろう。たしかに。しかし、平和なこの時代、韓国をこの気持ちを持ちつつ闊歩する心臓を私は持たない。
日ロ戦争当時、大英帝国か、ロシア帝国かを選択されたのは事実だろう。いずれにしても、グロ-バルな力の時代に、単独ではやっていけなかった。今でもそうだ。日本には資源がない。そこで、ロシアが満州に南進して朝鮮半島を伺っていたとき、日英同盟を結んで、英国との利害関係を盾にしてロシアを牽制したわけだが、それにコメントして、「..日英同盟はこののち20年間日本の安全と繁栄に大きく役立った」書いてある。今、ヨ-ロッパはトルコと西欧諸国がNATO軍常設を巡ってケンケンガクガクだ。昔から、特に近代史でのアジアとヨ-ロッパを結ぶ回廊としてトルコや、右上の方のユ-ゴあたり、右下の方のイスラエルあたりは、力のせめぎ合いだった。つまり、日本の安全保障には、それらの列強の力関係を盾にするのは当然だけど、安全保障がなりたったから、だから「繁栄」(それは、経済?、文化?)した、という短絡的脈絡はおかしい。そこには、和の気持ちがないから。人々は平和に、よりそって暮らせて「繁栄」するのであって、各国の力関係の均衡のうちに「繁栄」するのではない。ここはひどくアメリカ的だ。珍しく。
そうこうしているうちに第一次大戦。日本も日ロ戦争来列強の仲間入りをしたと思っていて、中国を圧迫する。逆に中国は英米と日本とのパワ-バランスを使って、日本に青島からでてけと言う。対して日本はそれを逆手にかえって要求を増大させてねじ込む。このときの「21ケ条の要求」に関する記述の下り。日本が人、武器ともに大量の受け入れを求めたことに対して、「・・中国を半植民地扱いするもので、中国のナショナリズムを軽視した行動であった。」とある。これは一件、「反省」にも見えるが違う。当時すでに、英米同様植民地化しようとしていたのは事実。それに、「中国のナショナリズム」を軽視した行動ではなく、中国の人々の気持ちを軽視した行動だったはず。この語意のすりかえは怖い。ここから、大東亜戦争に至るまでの中国の日本への態度もすべて、「ナショナリズムの台頭」と排日運動という言葉で語られている。日本人の経済的窮状を打開するためであっても、日本が中国本土に進出することは、軍事力を盾にした侵略行為だ。であるのに、中国が民族意識と排他意識でもって日本を戦争する形にもってった、としか読めないジコチュ-的解釈もスゴイ。
そののち、日本は今の政治のように大政翼賛的になってゆく。第二次世界大戦(日本を中心にすれば大東亜戦争)への突入。そのきっかけの日中戦争の始まりである。こっから先は、ここまでが基本認識がチト変だから、すべからくその後の論理構築が危うい。それはいま、日本中で議論されているから、書かまでもないや。けれど、言葉の扱いが偏っているのがだんだん鼻につくようになる。次に例をあげよう。
アメリカが参戦してからの日本軍は惨憺たるもので、自分が始めた飛行機による爆撃を逆手にとってアメリカにケチョンケチョンに負けるわけだが、真珠湾では、「・・(アメリカの)艦は次々に沈没し、飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた」から日本国民の気分が高揚した、そうな。ダイセンカか!すごい。負け戦さにはいるミッドウエ-海戦から先の敗退につぐ敗退。それが「..ガダルカナルで撤退」だと書いてある。「敗退」の間違いじゃない?
そして、そして「..マリアナ諸島の島々で、日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していったのである。」ギョクサイ!あんたが無知な少年だったら、これよんだら、帰りにヤクザに因縁つけて殴りかかったりしない?わたしなら、なんかヤリそうです。
そして、戦争が終わる。東京裁判。この裁判、正式唯一の国際法専門家はインド人の判事だけだったと書いてある。これは、戦勝国の一方的裁判で今のハ-グならどうかわからないが、当時は仕方のないことだ。それが、負けと言うことだ。この東京裁判のことと、南京の虐殺が続いてかいてあり、それへの疑問がのべられている。その次に、「戦争への罪悪感」と題して、「GHQは、・・・(メディアをつうじて日本の戦争がいかに不当かを)宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感を培い、戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた。」と結論している。このあたりは、急にコルサコフ状態じゃなく、キッチリ脈絡があるからすごい。
戦後の記述で気づくのも、2000年までの記述があるのに、途中調子よかったけど、そのうち経済の構造やITや医学での日本の遅れが目立ったことへの言及はなく、替わって20世紀のテクノロジ-の発達が、三極真空管→トランジスタ→IC→とならんで、コンピュ-タに言及し、「..今日では地球全体がコンピュ-タで管理されようとしている」と短絡的ジャジャジャ-ン!的結論をしている。あまりに、軽薄な、浅い論評で21世紀を迎えちゃってる。反省のない自信に満ちあふれた記述ではある。まあ、1985年あたりの夲と思えば納得できるけど。
ちと触れておく。社会面に関しての記述では、人権の尊重でアイヌの人々への差別などなくしていかなくてはとあたりまえの事がかいてあるようで、もっと前の「北海道の開拓」というテ-マの所を読んでごらん。「..アイヌの人々が約2万、日本人が約10万」というのが維新時の北海道の人口だそうだ。琉球についてもはっきり峻別している。とどのつまり、この夲は、狭義の?日本民族が、世界で、(アジアで)自信をもって21世紀を歩けるように書いてあるようにしか読めない。違ってるかなあ?
...さてさて、そしてエピロ-グ。
「日本の歴史を今、学習し終えたみなさんは、日本人が外国の文化から学ぶことにいかに熱心で、謙虚な(!!?)国民であるかということに気がついたであろう。...自分の進むべき歴史の模範を、むしろ外国にあおいだ。それでも、自分の国の歴史に自信を失うということが、ずっとおこらない国だった。(!?)...」それが、それが今自信を失っているんだそうだ。その一つの理由が、目標においついてしまって、それで目標をうしなったことと言うわけだ。それと、戦争(=大東亜戦争のこと。この教科書では昔キンクのようになっていたこの言葉を第二次世界大戦におきかえてある。ダイトウアセンソウが単に地域的意味合いだけじゃなく、ダイトウアキョウエイケンを掲げて侵略を美化した呼称であることは、戦中、戦後直後世代はみなしっている。ダイサンゴクなんていうのと同じ。)に負けて、それも本土で70万無差別に殺され、原爆を落とされたことで、復興で力をつけても自信が持てないことが「もう一つの重要な理由」だそうだ。フムフム!?
で、最後。「...日本人がこれからもなお、外国に謙虚に学ぶことはとても大切だが、いままでと違って、独立心を失った頼りない国民になるおそれが出てきたことは警戒しなくてはならない。何よりも大切な事は自分をももつことである...」フムフム〜。
以上だ。まあ、言っている意味も史実事態も「文章の上からは」間違ってるとは言えないけれど、よっぽど、おめでたく出来ていない限り、この夲の構成から読めることはハッキリしている。「エセコルサコフ」であることははっきりしている。これが無知な人に読ませる教科書としてただしいとは到底思えないのである。
いまの政治は事ほどさようで、「○○神社参拝」にしても日本人の「ミタマ」に礼する心は大切だから、他国の人にわかってほしいけど、この教科書と参拝のセットはあまりにも見え透いてて、良くない。私は日本人として本当に日本がすきだ。でも、それ以上に人間が好きだから医者をやってる。やぶ医者かもしれないけど。人間であることに論拠をおかない自信など、それこそ「ナショナリズム」という言葉であらわされる、民族主義に違いない。本当は人間主義であるべきところを。
追記しておくと、今、うちにあの遼東半島からの留学生がバイトに来ている。この記述は彼と、この教科書を前に話した後に書いた。かれの最終的発言を書く。「日本人の一部は事実を事実としない。けれど、それで我々や韓国の現代の人が日本とうまく行かなくなるとは全然考えていないネ-。」だそうだ。仲良くしようぜ。そういえば、ウチの患者に専門学校の日本史の先生が居たっけ。彼はなんと言うんだろう。今度キイテミヨっと。
注)コルサコフ症候群:記銘力障害,失見当識〔時間,場所などがわからない)、作話〔本人は嘘ついているつもりないが,架空の話を話すとそれにうなづいてそう思い込んで話し続ける)。原因はアルコ-ル,器質的脳障害がある人など)
(01.8.4終戦記念日を前に)