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→20世紀は,コンビニ科学が作ったキンボシちゃんのサブ-イお話で終わりにしようの巻
Merry Christmas! みなさん。20世紀も終りだね。いよいよ。キリストが生まれて2000年か。世紀=100年に対して、1000年紀ということで、たいそう大きな「節目」のようだが、神様にとっては、2000歳が2001歳になっただけじゃないかな。つまり,この「節目」は人間にとっての、という但し書きがつきそうだ。この2000年を振り返ってみるということは、簡単に,次の1000年はどうだろうという議論につながるようだが、世代を100年単位でみるという中国人でさえどうだろう。ましてや、我々こころ狭き日本人にとって、自分が死んじまってから920年後のところまで考えを致して生活するなんて絶対にありえまい。せいぜい,自分の定年後を思い描くだけだろう。キリストの誕生によって、史実としての宗教が誕生したように、解剖して人体を記述しはじめた中世後期。道具から機械という進化や、動力と機械による利便化が始まる18−19世紀の近代。歩兵と大砲に始まり原爆や劣化ウラン弾を使うような冷血大国が作った20世紀。発達のスピ-ドは加速度的で,比例直線の上に乗りはしないから,「利便性=コンビニ科学」に関しては超発達だろうね。G.H.ウエルズや手塚治虫の世界が確実に来たわけだから,いまや,下手なSFなんかより,現実の方がよっぽど速い。だから,コンビニ科学的には,2000年と2001年を分ける意味は十分にあるだろう。現に人の遺伝子解析が終わった。これから,21世紀はそれを実際の病気とかいろんな酵素タンパクと照らし合わせて全部合成人間が出来るだろう。クロ-ンなんて関係ネ-や。そんなもん禁止したって,ヒトラ-が合成デキライ!
さて,文学はどうだろう?発達?どうやってみる?コンビニ文学は確かに発達。コミック的に読める退屈しのぎの文学はそれこそコンビニで売ってる。ヘラヘラ笑って読んだり,自分と照らし合わせてウエ-ンって泣いたり。けど,便利になればなるほど,人間自身が発達するわけじゃないよね。人間はむしろ,退化しないか?科学が発達すると,手足が細くなり,火星人のようになると思われていた近代。それが逆に,ド-ピングで発達し,科学で発達した大男筋肉マンになり,頭は逆に考えなくても生活できるようになって退化してないだろうか。これを重力の関係から「火星人」に対して,「金星人」と名付けちゃおう。今や,人類は,「キンボシちゃん」になっちゃった。特に退化したのはどこだろう。いま,精神科学も単に科学だけになっちゃって,メリケン国の精神科学会とか,WHOで決めてる分類にそって,マニュアル化してしまい,フロイトやフロムの世界から遠くはなれた。私は,そういうのは好きになれないから看板おろしたけど,むかし,「脳局在症状群」というのがあった。「前頭葉症候群」とは前頭葉が障害されると,性格がかわり,なんか,幸せっぽくヘラヘラしたり,寒いジョ-クを連発,カル-くなって,深みがなくなる。また,「側頭葉症候群」というのもある。やはり,性格が変わって,ネチッコク,切れやすくなる。人の言っている意味が分からない,聞いても聞こえない。スト-カや17才殺人事件の犯人像にぴったりだ。なんのことはない。別に特別なことじゃないんだ。
ここで断っておくけど,これらの病気で心底苦しんでいる人がいる。その人たちのことを語っているのではない。コンビニ文学とコンビニ科学に支えられた,ヘラヘラして切れやすい,普通人について語っているのである。こういう今の人の生き様をかこつけているのである。IQの発達した「カセイちゃん」ならぬ,逆に退化した「キンボシちゃん」をもじっているのである。寒いジョ-クを言う点では私もまたキンボシちゃんなのである。今の若い人たちを私は嫌いじゃない,と言った。それはうそではない。かれらは,そういう自分を嫌いになっている程度によって,殺人者から海外協力隊までのいろんな段階があるだけである。退化は大人にまでおよんでいる。人から考える力をうばったコンビニ科学。耐える力を奪ったコンビニ科学。臥薪嘗胆(ガシンショウタン)なんて,いまどき完全に死語である。
さてさて,もっと終わりに近づいた。一昔前,19世紀の人口は10億だったと,今日の日経にコメントだしてる人が語っていた。とすると,19世紀には,中国に全世界の人全部がすめたことになる。今,携帯を駆使し,石油を駆使する10億の中国人。今の中国がやがて,今の日本の様になると考えるとゾッとする。その日本。あんなに,嫌みとブラックジョ-クばかり人目をはばからず言うどっかの女性議員をほんとに情けない首相のかわりに選ぼうと考えた人々というか,マスコミは本人よりもっと情けない。そして,我が朋友メリケン国よ。数票しか違わない得票を2人で分け合って,互いに喧嘩状態になり,裁判したり,裁判所も,数票しか違わないのに,いろんなあんなに,優秀な裁判官達が屁理屈つけて,一方を援護したりするどっかの国の大統領選挙と同じくらい情けない。そんなの政策をもういちどぶつけあって,やりなおしにきまってるじゃん。あるいは,ジャンケンでもよい。けど,裁判なんて意味がない。ほんとに情けない。あれが,我が故郷広島に原爆落とした大統領の後輩だなんて。死んでいった人が浮かばれないじゃないか。
さても,さても,かくいう私も実は本当に情けない。自分の好きな事以外,見ても見ず,聞いても聞こえずだ。興味を持てる危険物取扱者の試験には合格したが,机でこねくり回した感じの文章ばかりならぶ介護支援専門員の試験は,落ちた。前者は1ケ月も勉強出来たのに,後者はたったの4日だった。どんなに読もうとしても,頭が動かない。こんな状態では,自分は野菜全然たべないで,子供に,キチンと食べなさいという母親と同じだ。やはりキンボシちゃんになってる。今のわたしには,20世紀が終わって新世紀だ!と叫ぶ資格がない。2年前,ヘリの事故から奇跡的に助かって,神の存在をおもい知ったというのになんと言うことだ。もらった命のむだ遣い。これが今の心境である。従って,今の私には,今年より,がんばるという来年しか存在しない。あんまり,個人的なんで,ここでガックリの読者諸君は,13ペ-ジの「黄金の翼・・」を読んでほしい。人間の質をあげる方法がそこに書かれているはずだ。と言うところで,ではみなさん,よいお年を。それでいいじゃん。21世紀!!なんて肩張んなくて。(00.12.25)
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→21世紀は1年半で新品にの巻
北国の街路樹ナナカマド。赤い実が雪からはえる枝に実り,鮮やかな赤がフロントウインドから目に飛び込んで来る季節。2001年の始まり。
雪がれの はのなき枝に朱をさして リセットしろよと 人によびかけ
と言われているような。読者のみなさん、1月も終わりになって,へんですが,あけましておめでとうございます。どうでしたか?ゆくとし,そして来た年。2001年に、なってなにか、心が晴れ晴れとしたような、変化がありましたか?
私はと言うと、久々除夜の鐘なぞ聞いてみましたがな。なにせ、1日から仕事なもんで早々1時15分に寝ました。で,「行く年来る年」みながらでも、なんにも変化がおこりませんでしたね。なぜでしょうか。こどもたちには,なにか心が変化したのでしょうか。カフカのように。
そして、例の一家殺害事件が起こるわけで。なんともいや-な事件だったねえ。子供やその母親の顔を刃が折れるまでメッタ刺しにしたとか、、、。そのあと、ニヤけた男がタクシー拾っただの、その服に血がついてついていただの、タレントの流行らせた服のコピ-が残ってるとか、いろんな遺留品があるとか、20代のでかい男だとか,なんとかかんとか。閑静な東京の住宅街での陰惨な殺人、恨みとすれば、東大を出で今風の能力主義にのっとった企業家といわれるひとびとの代表選手見たいな御主人。能力がある人間への家族への嫉みに基づくかのような抹殺劇。土曜ワイド劇場がそのまま本当になったようなうすら寒さ。だんなが、本当にうらまれて殺されたのならそれは因果と言うものかもしれないが、なんら無関係な子供を新しい世紀を迎えたばかりの輝かしい未来を奪う権利は深遠な策をなす神にのみ許された技。それを殺された側と同じ「人間」が、「わたしがやりました」風に装うノンフィクションドラマ風の本物の殺人。命がほんとうに奪われて,肉体は傷だらけで横たわり,二度とオンコの実をガラスごしに見ることはない現実。とりもどせない。これらが正しい犯人像特定の証拠の積み重ねと感じるのには我々は多くの事件を知りすぎている。どこかに警察かマスコミの情報の操作があり,これらの「遺留物」を「証拠」だと,信じ込ませようとしている様に感じるのは私だけではないだろう。
2番目は,やはり仙台の准看護士患者殺人事件だろう。いったいなにがなんだかわからない。いいたいことは沢山あるが,もっと真実がわかってからにしたい。しかし,信じられない事だ。
去年の秋から,樽前山の火口の写真を撮っている。ヘリからのだから,視点が平面じゃないこと。このことは,とても大切なことのように思える。けれども市役所にしても,測候所にしても,だれかかれか,その事を関係者に言っても興味をもたれた実感が伝わってこない。しろうとが,参加してくれてもありがた迷惑?,二次災害だって起きうるし,という感じが見え見え。もちろん,みなさんいちおう,表面上は歓迎するのだが,検討しますという一言で,その後音沙汰なし,というのが,この数年感じる,私のやっていることに対する人々の反応を語る時の実感だ。「スゴイことやってんだから,評価しろよ」といってるわけじゃない。実際に噴火するかも知れない火山に対して,こういうアプロ-チもあるよ,と言ってるだけ。わたしなら,どんな情報もうれしいと思うけど。それだけのことで,評価されない行動にはなれてるけど,なんか残念なことだ。このまえ,例の有珠山で大活躍した火山学者の先生の話を聞く機会があった。火山の災害は,局地的なもので,従って,危険管理も含めて地域の住民との意思疎通と理解が一番大切と言われていた。ま,いろいろな災害を通じてすでに「官」のマニュアルは出来あがったという自信を感じた。だから以上はいらない,というところだね。先生にも私のやってることのパンフを差し上げたけど,どうだろうか。興味を持ってくれるだろうか。
さて,このことを取り上げたのは,先の一家惨殺事件と同じ「モノ」を感じたからだ。唐突だと思うだろうけどある一点について皆に聞いてもらいたい。大先生曰く,有珠でも,「警戒」という言葉を最初使わず,「噴火の可能性」を述べたという。まず,事実をたんたんと述べて,それに対して注意を喚起すると同時に混乱を予防する。それから,順次ボルテ-ジをあげていくが,従来のように,混乱を防ぎ,「不安にさせない」表現は社会心理学的にはあまり意味がなく,ボルテ-ジが「うまく」上がっていく段階で,「不安」も避難行動を準備させる意味では大切なんだそうだ。それらは,すべて事実だと思う。これらは,確かに自分の職業でもよく使う「手」ではある。聴衆はほとんど医師だからこうはっきりそう言われたのかもしれない。けれど,私流に気にかかるのは,生活に直接かかわる事項に,最初からそういう,情報の操作を加えることで,その流れにそって最小限に被害を食い止めた村の人々を賢い住民と表現された。つまり「賢い住民」をうまく導くには「必要な手」=「情報操作」をうまく「理解」し,整然と行動すれば「よい住民」と聞こえることだ。私流の誤解だとは思うが。
目の前に見える自分の築いてきたすべてのものが文字通り「灰」になるのを眺めながらも,自己抑制的に避難をした洞爺村やその周辺の人々には頭がさがるし,「エライ」。しかし,それは,彼らが自分の意志で行ったことで,それを「おかみ」が操作したからそうなったわけではない。その証拠に復興が始まったときにはすでに「どうするか」のプランが住民の人たちに出来ていて,温泉街では,インタネットなどを媒体にして,積極的に住民活動を行っている。またはそのパワ-をしっかり感じる。初めての事ではないし,関西,奥尻の教訓がひとりひとりの住民のこころに刻まれた結果である。情報の操作があろうとなかろうと,彼らはそうしたに違いない。そのなかで,それでも家財や家畜を見に行く人間が操作があれば少なく,操作が無ければ個人の判断に任され,増加しただろうことは想像に難くないが,それは人々の多様性の問題だろう。死ぬかも知れないがそれでよい,と思っている人間の意思を反映させるかどうかの問題だ。情報は,そういう人々の生活を援助するために与えられなければならない。タワ-リングインフェルノが起こることを避けるために,100の情報を80にしぼる操作は神だけにゆるされる。遺伝子の操作もそういう意味で倫理的規制がある。火山の先生のお話の中に,彼がそうおもっているかどうかは別にして,なにか,そこかしこに,またまた「おかみ」の驕りを感じたのは私だけだろうか。私は彼の人格を疑うわけじゃないよ。ヘンな人にはチットも見えない。白川先生の可塑電導体の発見と同じく,最近は地道にコツコツやった人が評価されている。彼も同じに見える。それは立派なことだ。突出した天才でなくて,努力が実を結ぶ。そういう実直さに私がどうこういえることはゼロだ。私はなまけものだから。問題は彼をみえずがなに包み込んだ「ある組織」の存在なんだ。ここにおいてはじめて,前の殺人事件と,自分のライフワ-クのようになった,火山のお話との共通点が生じる。繰り返すが,彼の人格は疑っていない。彼の背後をうたぐっている。
商売柄「インフォームドコンセント」という概念はいつも頭のどこかに走馬灯。別に、自分の医療行為に対して責任を回避したいからじゃない。いちいち、事故責任を回避するようにするように診察するわけではない。よっぽど自分が熱があるとか、体調が悪いとか、その患者がどうしても好きになれないとか、そんな時は注意が集中できないことはあるが、一応一生懸命診ている。けれど、インフォームドコンセントは本当は相手を守るためにあると思う。だから、あなたはガンですとは、場合によっては言えないこともある。そんなときは、ウソをつく。情報の操作である。火山の先生もそうだろう。これは心情である。だからと言って,心理的な合理性を逆手にとって、情報を調節する行為が正しいとはとても思えない。情報は、操作せず、「よいもわるいも」正確に伝えるべきだと思うのである。それをどうとるか。あるひとはパニックになり、ある人は冷静に対処しようとする。そして、群衆心理により多くの人は最も合理的行動をとれないで被害が増える。それで死者が増えれば不幸である。あんたはガンだと言ってそのひとが自殺したら不幸である。でもガンの自殺者の不幸は、火事場でにげまどって死ぬ不幸とは本質的に違うと思うのである。やはり、マスコミもその道の専門家も,情報で人々を扇動や制御すること、つまり神の口をもつことより、人を信じて本当の事をいうことがたいせつだと思うのである。
世の中なにか、「自然の理」が失われ、「人の理屈」がまかり通っている。と、へ理屈タレがいうのもおこがましいけど、理屈はやはり「自然の理」でないといけないと思う。親が子供をしかるときも、逆にこどもが親に反抗するときも、ウーンと思わせる重さが必要だ。それが、なにか、自然科学や人文科学の発達に従い、それのもっともオニュー(ふるくなったなあ)な知識ですぐ、直ちに,証拠がためなしに語る輩がふえ、そのしり馬に好んでのる大衆がふえたきがする。新年暴走族は有名になったが,それを見るギャラリ-が大衆だ。これは一つのスタイルである。われわれの医学の本も一昔まえは10年に一回の改定だった。私が若者のころは,ベンツの新型は7年に一回のサイクルだった。だから,安心してベンツに乗れたのだと思う。それが、今や医学も自動車ももって半年だ。こういう変化を望んで、積極的にとりいれて来た自分がそれを否定するのもなんだが(という表現が今度は多いかな)、意志の上にも、違った、医師の上にも、ちがった、石の上にも1年半は「変化しない」がまんがひつようだろう。つまり、新しいものが間違っていないかどうかの評価の期間を経なければそれを世に問うてはならず、あくまで新知識として、雑誌や新聞、それにニュースくらいにしとかなければ、大衆もその間は自分で積極的にとりいれず、慎重にみまもるようにしなければいけないと思う。昔にもどれとは言わない,しかし,一昔前のように「ニュ-ス」と「知識」の節度ある違いは必要なんだなあと思うのだ。「IT革命」かなんかしらないが、せめても老いも若きも3年くらいは、自分の愛車をかえず、携帯も1年半はつかうと言うのはどうだろう。腰をすえなければだめなんじゃないか。すなおに、「自然の理」として納得できない状態で考えてしまうと、こういう異常な犯罪や、大きな災害に備える力が沸いてこないのではないだろうか。進歩と軽佻浮薄が混同されていると思う。
こう言う考え方からすると、最初の犯罪は、いかにも犯人がマスコミや警察や大衆をおおくの「残留証拠」で惑わしているように見えるし、警察はそれを逆に大衆に流すことで犯人を安心させようとしているようにみえる。2番目の殺人者は、被害者とともども、あたらしい治療法や花形医療の犠牲者であるようにみえる。そして、有珠山さえ、それがいかに大成功の予防的避難のヒナ型になるとしても、たんに情報にあやつられた「バーチャル」な記憶としてうっすらとみんなの心にとどまり、身もこおるような大災害の際には、その教訓がいかされず、忘却されるようなことがなければよいと思う。私は回帰主義者でもないし、悲観主義者でもない。しいていえば、自然主義者といいたいね。自然とは、つみかさねと突発的な事象でなる、了解不能な部分を残しながらも大筋は自然に納得できる自然のことわりであるはずである。私はこの世紀の始まり,これで行きたいと真剣に考えている。ではみなさん。(01.1.30)
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→今日はお仕事のお話をしましょう。私の会社がつぶれて早13年。元奥さんと新境地を求めて北海道に流れ着いたのです。しばらく釣り三昧の日々。やがて,また,起業精神がムクムク,人に使われてるのがつくづくだめんなんですね。6年目に苫小牧で賃貸で開業してはや7年。いろいろありました。おととし自宅兼医院を建てて1年半。おかげさまで忙しく過ごさせてもらいました。最初のクリニックの患者さんには特別に思い入れがあるもんです。人口591世帯〈位)の浜の町浜町。ず-とやるからね。と約束したおばあちゃん達は,少しずつあの世に旅立たれ,いまは,櫛の歯が抜けたみたいなもんです。それでも,数だけは補充されるようで,多くもならず少なくもならず日がな30人位の患者さんと,あ-でもない,こ-でもない,と言いながらここまでやって来ました。で,やめるなんて考えてないが,やはり合理的にはしないと経営が成り立ちません。
けど,赤字になっても約束は守らないと。在宅看護とか,福祉事業での在宅ケアとか,いろんな方法がありそうで,実はない。どれも本当にず---とお国の為に働いてきた老人を守る事業にはとても見えない。ただ,「はこだけの蒸気機関車」って感じ。開業医をいじめて,数を減らせば赤字の解消にはなるかもしれないけど,せめて窓口としてのクリニックだけでも残さないといけない気がやはりするんです。「背に腹は代えられない」ってのは,自分自身がこの10年,苦しいなかから,銀行だましてアメリカに行ったり,いろいろの経験の中から良く分かってますが,やはり,「武士」ならぬ「医師」は喰わねど高楊枝も,ある程度はひつようなわけで。
幸い新しい方のクリニックは,新興地区で10000世帯以上いて,うちと2軒しか内科小児科ありませんから,食いっぱぐれは無いわけで,時間を今の旧:新の2:1をいよいよ1:2にします。感謝もあってバカだかい賃料をはらっていましたが,大家さん,今の半分の時間になってもキチンと一日分よこせという。そりゃ,60過ぎて,仕事がないから賃貸料だけが収入なのは分かるけど,あまりに因業じゃありませんか。近くにやはり4年前先生がなくなられた医院があり,3階建て病室付きでその半分で貸そうというのだから,1階の診療部分だけ借りても元が取れる。それで4月からそっちに旧クリニックは移転と一度は決めたのです。
「よし!やるぞ」と思って移転の略図を書くために,旧クリニック周囲の地図を開いてみました。どれどれ,周囲に内科系の医院が3軒。地区的にお年寄りが歩ける範囲には2軒。その医院と軒を並べる訳で,なにかと「どうせもう一軒あるんだから...」とうらみごとも聞こえて来そうな感じですね。だから,その先生の診療所を訪れました。60を少し越えた清潔な感じの先生です。私の話をだまってきいてうなずいておられました。診療所はつい最近,患者さんを見込んで全館をきれいに改築したばかりです。厚生省の看護婦の数なんかのをきちんと守ろうとして苦労をされたでしょう。いまの厚生省のやり方は,有床診療所をつぶそうとするやりかたです。・・そんな先生の顔を見ているうちに,自分でなんとかするより,この人に任せたほうが,八方丸く行くかも,と思えてきました。旧クリニックと予定する移転先は約1Kmの距離。凍った道をバアちゃんたちは歩くでしょうか・・・
アヤノちゃんという若い友人は,「やめなさい!」の一言。こいつの一言は効くのです。「みんながよろこぶわけじゃなし」。それでというわけじゃないけど,「浜町クリニック」はやめることにしました。いいかげん,と言われそうですが。あまりにバタバタしすぎて,勉強もおろそかになった。まあ,これは言訳でして,空飛ぶ時間があるなら医学の勉強すればよいわけでした。ま,いろいろ言い分けいっても,やはり背に腹は替えられません。地に足をつけて頑張るには,それがよいということでしょうかね。友人の意見によると。医学の進歩についていけないのです。いまの時間のなさでは。これも言訳でしょう。ようは,バ-ちゃんたちがなくなって元気が失せたのです。これが真実だと思います。それでも私は思うんですが,何もかも,合理性のなかから患者さんを納得させる医療なんて,どんなに科学が発達してもあるわきゃない,ていうか,もう少しして,ノ-マン型中心のコンピュ-タもニュ-ロコンピュ-タに様変わりして,私たちやぶ医者より,正確に診断できるように必ずなります。検査が発達すれば,その結果はデ-タなんだから,我々人間が扱うよりも機械が判断するほうが,「デ-タを評価する」ためには正確ナノは火を見るより明らかなわけです。医者は「あたまはニブイがこころがヤサしい」のが生き残ると思います。あとは,生物屋さんか化学やさんにまかせて,診断が変だったらIT技術者に見てもらうわけです。医者,自分で診察して,症状をあらゆる医学的知識から総合的に判断し,薬を処方したり,メスで切り取ったりする技術屋さん,は,もう時代遅れでしょう。「バ-さん,あんたのドクタ-ロボはああいっとるが,わしゃ,反対じゃ。この原始的な薬でもたせて,あとは,よ-あるけや-」「せんせい,ほんと-にだいじょう-ぶか--」「おお--」みたいなかんじかな。
あとはヘリも役立つかも。「先生--わしゃ-も-ダメじゃ-,来てくれんかいの--」「おお,いまいくど--」「ば-さんきたど--,だいじょうぶか--。」「あほか,わしゃ,りんじゅうじゃ--。このロボ先生じゃ,ないてもくれんけの--」「そうじゃった。あんたもざんねんじゃの--,なけてくるぞ--」「おお,やぶ先生,ないてくれるんか--」「..ゴリンジュウデス。ジカン,ギリニッジヒョウジュンジ,000100デス」(ガク)とか。江戸時代にもどれとはいわないが,人の臓器が痛んだら自動車みたいにパ-ツを交換,って言う時代を迎え,屁のつっぱりでも,昔,思い描いたような,「町医者」でありたいと思う気持ちと「背に腹は変えられない現実に挟まれて元気のでない今日この頃です(00.02.13)
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→ 潜水艦の艦長が罪に問われない訳ではない。軍人は軍人が裁く。それがいい加減に行われるとは思わない。民間人を乗せてパフォ-マンスをすることはアメリカ的だ。けれどアメリカ軍人が自分勝手に事実を隠すとは思えない。しかし,日本人はと言えば沖縄という前例があることを良く知っている。沖縄の米軍人が何かするたんびに,日本の捜査当局が後手に回され,解決が遅れる。悲しむ沖縄人がでる。アリゾナが乗組員と共に沈む戦艦アリゾナ,そのパ-ルハ-バ-のあるハワイ沖での事故。口に出せない因果を感じた両国民は多かったと思う。
「謝罪」とその方法。日本も中国や韓国から「謝罪」が足らないといわれるよね。何度も何度もあやまれ,あやまれ,あやまれ! アメリカでは裁判前に「謝罪」すると法廷で不利になる。陪審員がテレビを見るからである。日本では,一旦あやまっても,裁判では「あんときゃそう思ったけど,,」と言っても,世間知らずの裁判官なんて,俗悪なテレビなんかみないだろうから大丈夫だろう。けど,アメリカは一般市民が裁くからそうは行かない。ヤラレタ方からいえば,日本の中の事故なら,一方的に沈めた方が悪くてゴメンなさいって言って,後は警察がそれを立件すればよかったものを,相手がアメリカでしかも軍艦だから,全体の悲しみがひどく重い具合になってしまった。気の毒だ。けれども,事実はたった一つ。事情がどうであれ,若者たちは意味なく殺されたという事だ。その真実から目を背けるわけにはいかない。故意でなくてもあれは犯罪であり,犯人は罰せられなければならない。そこに,国の違いとか,文化の違いを入れてしたり顔に話すことではないような気がする。それは事実を隠す。
一家惨殺事件。あれはどうなったのだろう。なんらその後事実が発表されない。犯人にせまったのだろうか。国民にブラフを与え続けたあいだに犯人に迫っていったのだろうか。マスコミに取り上げられる重さが犯罪や,犠牲の重さに置き変わっている現代。もっと静かに事実を考察する態度がなければ,ちょっとしたことが大きな波紋を呼び,悲しみを増す。しかし,だれもが知ってないと,事実は隠ぺいされることも叉真実だと思う。日本人に徴用され殺された祖父をもつのに,日本で学んだ韓国学生が酔っぱらった日本人を救うため命を落とすことの意味を良く考えたいね。
潜水艦の話は,当事者が国を越えるという「修飾」が現実が「業務上過失致死」の真実を覆ってしまった。その「修飾」は元来不要だったわけだ。列車の事故の方は,事故という真実に,国籍の違いという「修飾」は欠かすことの出来ない要素となっている。それらの事をみんなが忘れると,戦争になってしまう。けだし,こう言う「違い」というものは,国を持ち出さなくても,個人対個人でも同じことであるはずで,そこに当事者の家族の苦悩がある。避けがたいヒュ-マンエラ-。艦長さんも人間だった。「わしゃ,アメリカ海軍のそれも最新原潜のそれも,艦長だデヤ。」ってか。別の意味で,彼は三沢生まれの「日本人」だったのかも知れない。
昨日,ある医師が広い4-6車線の道路で横断者をはねた。業務上過失致死に当たるのだろう。医師はすぐその被害者を病院に運んだが,助からなかった。私が運転していていつも感じるのは,「怖さ」だ。到着まで頭が痛い。ま,カ-チェイスしているときは別だが。救急患者がでたらすぐに自宅から病院までいかなければならない。これが広島なら良いが,こちらでは,車庫の雪かきから始まる。次ぎにツルツル道路を100km/h近いスピ-ドで走るのだから,この医師の場合の様に,夜だとまず100%死亡する事故になるに違いない。一応そのためにレ-スのライセンスを取りジムカ-ナで練習はしたけど,人智を越えた自然にはそんなもん屁も同然。どんなことにも理由がある。その医師もきっとそうだ。けれど,死ぬ側には,死んだ,という事実が残るだけ。そこに無念がある。私が彼に聞きたいのは一点。運転という行動に彼が常に「怖さ」を感じていたかだ。もしそうならば同情する。それは所謂「魔が差した」だけだからだ。明日は我が身と言うことだ。
ヒュ-マンエラ-への備えを広くリスクマネ-ジとすると,日常の生活の中に,一人ひとり「危機管理意識」をもって暮らす必要がある。これを日本人は嫌うだろう。日々楽しくないからだ。それにどんなに頑張ってもたった一回,「魔が差す」だけで,終わり,なんてことは,交通死防事故だけに限らない。大変なことだ。楽しくない。暑けりゃ浴衣一枚でウチワを振りながら鍵をかけずに路を横断し,話し込むのが日本本来の正しい姿だからだ。私もそういう「町医者」でありたいと思ってるし。で,アメリカでそんなことをしたら,武装をしてない格好のカモにされるだけだろう。人間の違いというよりは,リスクの違いが,国民性を分けている。それが,戦争世紀を越えた,真の「国境」である気がする。面白いのは,うちの首相と同じく,米国の大統領もあの顔つきからそれを感じないから,あちらさんもこれからが大変そうだ。
ヒュ-マンエラ-はなくならない。けれど,それを管理しようとする強い意志は必要だと思う。「いま,さしあたってひつようのないことに真面目になる」態度がそれだ。どうせ「魔が差す」なんて考えてもやるこった。これは,もっとも今の「平成日本」の人間の不得意項目である。この前のニヤミスを思い出す。管制は英語,私はある教官とよくやりあった。飛んでいると,横から「西本さん英語で交信してください,医者でしょう!」見たいに言う。彼の言いたいのは「いやしくもライセンサ-なら,ATC(タワ-交信)くらいのボキャもてよ」ということである。そういう態度の「キョ-カン」は多い。ま,キョ-カンは教えなくちゃいけないから,わからないでもないが,この業界そのものがそういう体質で出来てるのは確かだ。私のような見方からはその事自体が正しいとは思えない。習ったのは米国だから,そりゃ英語で通す,でも良かったかも。けどいろいろ考えた末ずっと日本語だ。そりゃ航空学会では英語でやることもあるよ。相手が外人の時は。けど,その時でも,ドダイは「机上の空論」っぽいシチュエ-ションだよね。間違ったからと言って,死ぬ人はいない。ところが実機上では空論で済まされない。しかも管制ではフツ-相手が日本人だ。日本人が日本人に英語で話すなんて危機感のなさが怖い。飛ぶことはリスクを伴う。生半可な英語〈という名のヘンな日本語)でやりとりやってるような程度の意識ではリスクマネジメント出来ない。日本の管制はだから英語,日本語両方を認めている。カッコがなんだ,と思う。ネイティブに近いひとド.ウ.シ〈二人ともの意味)だけが英語になるべきだ。
色んなところで,鎖国的に生活が出来ない21世紀。かといって,国境があろうとなかろうと真実は一つ。結局は個人と個人の連鎖が巨大な連鎖につながるだけだ。どの国に属して,何語を話すかも大切だけど,元はみ-んな人,ホモサピエンス,パ-ソン,である。そのことをしっかり根にすえて,色んな議論をしないと,とんでもない事態,戦争,カンナンが襲ってくると思う今日この頃だ。
PS:そういえば、今日偶然思いついて、大コンビニチェーンのロ○○ンの新規事業本部と言うところに、「患者情報(病名、最新検査結果、処方)を貴社のカードに入れて、患者が不調になったときもよりの医療機関の近くのローソンでロッピーに差し込めば、情報がプリントアウトできるようにしていただければ、そのカードを当院の診察券として患者に配付できます。こういうアイデアは、とっても患者さんに便利で、地域だけでなく、国内どこにいっても安心です。ローソンならではの利用法になりませんか。できれば御返事待ってます。」とメールしといたのですが、読者の皆さんどう思われますか。みんなで使えるグットアイデアだと思うのですが。御意見ございましたらメールください。(01.3.10)