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意思=will と イメ-ジング理論-stop the 悲惨な殺人事件!
→さてと,今回もな〜んか暗い。10年以上も見ているサンデ-モ-ニング。扉に,一週間の「はやわかり」と称するビデオ構成がはいる。ま,なんとも暗たんたるもので,すべて,人殺しなどの事件事故でつづられる。「チョ-サイテ-」である。というわけで,いいわけ的には,こういう具合のニュ-スばかりで,「ちょっと一言」さえも言う気がうせる。それで,最近定期的に書けない。
暗い17才ブ-ム。一昔まえまでは,「17才」が取り上げられれば,「夢を実現にアメリカへ」とか「やった,17才勝利のえがお」とか,そんなタイトルがついたものだ。それが今じゃ,「またまた17才,人を殺してみたかった17才」とかくるんだ。きのどくなオブチ君が亡くなったその日に騒いだ23才の若者にしてもそうだ。酒店に押し入り,酒を投げつける。100万円相当の酒をヤジ馬方向になげつけてダメにしてしまった。これだけなら,いままでも,「ムシャクシャ」犯は後をたたなかったわけで。
問題はナイフである。「店の主人を殺し,アジトにしたかった」事である。せつなのアジトを得る為に,もとの主人を殺さねばならない理由。山口駅の構内に車で暴れ込んで人殺しをした人物にしても,バスジャックで母親の年齢の女性を殺した17才にしても,その理由がなんであれ,病気である。法律解釈としては,流れからみると,精神に異常を来していても,「責任能力」が問えれば有罪にする方向でコトが動いている気がする。いかにも精神病を理解しない,「異常な精神にも五分の理みたいな」風潮があるが,これは誤りだ。異常者は異常者として,正しく,厳しく扱いをする必要がある。「人権,人権」と言って,精神異常者を安易に開放してしまう愚が根にある。それ以上に,犯罪を犯す,あるいは,病気である人の人権を言うなら,それによって犯される側の人権も真剣に問う必要性があるからと言って,人の人権を奪ったから,病者であっても「責任能力」を認めよう,見たいな安易さはもっと恐ろしい。安易に重要な法案が日替わりメニュ−並に決まり,日本のトップワンが,「神の国」だの「国体(=国民体育大会とはチャウチャウ)」だの言って,そんでもってトップツウが「三国人」とかのたまって,本気で銃撃戦とかして緊張している一方の国(=台湾)の方に出かけたりしているような,人前〔国民や世界)と身内の間〔党内や役所)の私言とか行動の区別もつかない国民性が問題だ。そして,私も残念ながらその一人だ。だから,自分も含めて,この国の人々が彼ら「犯罪人?病人?」を裁く権利をもっているとは思えない。
さて,イメ-ジングの話に移る。アメリカでの若年犯罪は銃をつかう。日本のそれはナイフを使う。いきなり,頭に銃をあて,脳みそをグチャグチャにするのも恐ろしいが,ナイフでいきなりメッタ刺しにされるのもたまらない。アメリカでは,いよいよ銃規制を叫んで,婦人方が立ち上がったが,なにせ,有色人種が被害の中心なので,(と私は断定するけど〕先にすすまない。プレ-リ-さんが客寄せパンダだったとは思えないが,まだまだ遠い道のりだろう。そして,それが万一近々ほとんどの州で成立したとしても,日本の例から,ナイフがのこる。アメリカの銃規制を「当然だ,ざまあみろ」と思う日本の常識人の方々,日本でもナイフの規制を強化するほうが,少年法の改正よりも大切とおもうがいかがか。
これらの事件には,いままで語られてない重大な側面がある,と私は思っている。イメ-ジングの問題である。人間の視床から記憶の回路には,認知と一対一の大切な機能がある。視床側がマッピングをするとそれを記憶する前に整理し,記憶を圧縮して整理棚にしまう。このプロセスで,後で圧縮を解凍して取りだしても情報の質として,おかしくならないかをあらかじめチェックするイメ-ジング機能が大脳側にそなわっていると考えられる。いまどきのインタネットおたくならすぐピント来るだろうね。この大脳生理学的機能が今の議論から忘れられている。それは,こうだ。
むかし,一般の日本人は武器をもっていなかった。そうすると,武器にかわるもの,果物ナイフとか,包丁とか,クワとかが身近な武装手段だった。ものの使用法を転用する,というのは,実は結構,大きな壁なのである。例えば,紙を切るとき,ハサミしかないとする。ハサミを使って,紙を直線に切るには,そのままチョキチョキするより,紙を折っておりめにそい,はさみの刃をナイフのように使うほうが重宝だ。ところが,やってごらん。なにかしら,気持ちに変化が生じるのに気づかないか?「うん,この方がキリやすい」とか,「刃に気をつけよう」とか,「うちのハサミ,よくきれるわ」とか,行為の始まりと,終了の間に,こんなコメントが必ずつくのに気づくはずだ。ところが,近くに包丁があったらどうだろう。「ちょうどいい」と思うだろうか。切れて血の出る指とか,魚のイメ-ジでも浮かんできて,「やれやれ,ペ-パ-ナイフでも探すか」と腰をあげようとするだろう。ところがあるのがナイフだったら。君はためらわずすばやく紙をおり,ためらわずナイフをその間に差し込む。このイメ-ジングというのは,実はとっても大切で,とっくに,西洋の競技運動家の間で大切とされていたものだ。いまでは,日本の運動家も活用している。特にジャンプ。「スロ-プからのびあがり,風をとらえ。。」というイメ-ジ通りに飛べれば,ベストのジャンプが出来るのだ。
ところで私は,こどものころ,いわゆる改造銃というものを手にしたことがある。ずっしりした金属の重み。各種アクションがなめらかにスルスルと動き,余計なひっかかりがない。そのすべては,人?をうつために完ぺきに出来ている。試し撃ちはさせてもらえなかったが,おもちゃの銃ではもちえないある心像をもったことをハッキリ覚えている。こういう悔述は,犯罪心理学の場面で往々にして犯人から語られている。
これ,つまりイメ-ジングの明るい面は,スポ-ツ競技でもそうだが,私の職業的には麻薬があげられる。近ごろも末期のガンの患者さんにつかったが,患者さんが,自分の生活の向上(痛みからの開放)を切に願っているとき,麻薬は便利でしかも安全である。苦痛から逃れ、積極的に生きる道具である。幸運にも、病魔から開放される時、麻薬からの離脱が困難に思われるが、そうでもない。目的が生きるためであれば、嗜癖や退薬による症状は、想像以上に少ない。ところが、嫌世的、退廃的にこれらを使えばどうなるかは目に見えている。警察官が銃を乱射しにくいのも、銃を正しく使おうとする意志があるからだ。意志=willをもち、道具をimage通りに使えば、麻薬でさえ道具は人を裏切らない。例外は核だ。それは意志を超えているから、意志による正当化は無理だ。私がアメリカ嫌いなのは,それをゴリ押しするからだ。栃木県警察の件,ウ-ンこれは次回にしよう。頭が痛くなってくる,と言うわけで今回はこれでやめる。世の中ほんとうに末だなあ。。(00.6.6)
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原爆の日と方安庵ヘリポ-ト開港についての無関係
→考えてみれば明日は8/6 原爆の日である。その日も暑い日だったという。私は,この日を記念して,日本のParle Harbarだと思っている。いやそれ以上だろう。いかなる理由があろうとも,一般の市民に向けた放射能実験など許されるはずがなく,したがっていまのアメリカの繁栄は,かならず,聖書の言葉が成就する。
こういう下りだ。〈以下,完全な引用ではありません,あしからず)「今,満たされているものは,明日飢えるようになるだろう。」自分の国に,あらゆる人種の人質を囲っても安心などするな,「野に咲く雑草にさえ美しい花を咲かせる神」は,いつでも奢れるものの命を奪うことが出来る。などと,ドイツ時代にうろ覚えた聖書の言葉を合成しなくとも,奢れるものは久しからずや。殺戮に理由がついてそれから逃れるすべなど,ない。私も,未熟な自分の医術で,人の命を奪ってきたとしたら,私のそれは神から奪われるだろう。内科だから端的には語れないが,外科の医師なら,最初の手術と20年後の手術が同じ腕前などありえない。そして,手術が医師一人で行われることもありうるとしたら,そこから引いて,私もまたしかりである。毎日自分の仕事を続けていけることは,そう許されていると考えるしかないではないか。
今2000年だから丁度55年経ったことになる。56度目の原爆の日である。それを知る人間に取って,絶対に55回目などと言うことはありえない。単に「きめごと」と体験との大きな違いである。56回目の原爆の日なのだ。わかったか。しかり。国連の常任理事国にはまだなれない。しかり。いつまでたっても戦後は終わらない。しかり。韓国と北朝鮮の宥和もどうやら音頭だけで終わりそうで。こうして,草葉の陰の人々のためいきが聞こえてきそうな20世紀最後の夏である。
うつつにもどろう。批判もあるが、沖縄サミットの意義は大きかった。バカにされていた小渕君は、岸、田中以降の首相としては、よくやったと思う。あのローカルな歓迎がカナダのそれの10倍以上の金がかかったとか。それでも、米兵の夜獣的行為におびえる沖縄でアメリカ大統領(任期終了間際の死に態とは言え)が列席し、お別れパーティまでするなんて、誰が考えたろう。オブチ君殿の死出の旅の最後は日本人の記憶に永くとどまる快挙である。このポンコツ大統領もITなんてものをひっさげて,子供のおもちゃを本物にしてしまった功績は,ゴア君とともに,後世にのこるだろう。そのことは、「みらい2000」を見てみた人は良く判ったはずだ。よいも悪いも,時代がある牽引役を必要とする訳だ。
さて,今回は、久々私事を書こう。98 年の10月に事故に遭って以来中断していた民間防災へり活動が再開した。今度の機体はさらにポンコツ、ところどころヘコミはあり、サビだらけ、けれどエンジンだけは正真正銘のオーバーホール新品だ。そのアンバランスがまたよい。それを、40フィートコンテナをチョット改造したハンガーに収めて、ついに、マイヘリポート完成だ。土地は、以前少し触れた癌の末期患者さんの土地なのだから、因縁というものだ。本当に本当にありがたいことだと思う。そこまで自宅から車で7分だから、恵まれた環境と言え、有事の際の出動にもってこいとなった。早いとこホームページの写真も入れ替えて読者の方に紹介したいが、なにせ、医院が2件になってからというもの、仕事に使うソフトでさえ、朝一で開いて、そのまま12時まで時間がなくて使えなかったなんて日が続いているので、始めれば30分程度の作業さえもままならない。「チョット一言」原稿も滞りがちだが、多くのホームページでそうであるように、最初だけ勢い込んで、失速、ついに廃棄なんて風にしないよう、頑張りたい。と言うわけで、updateはままならないという言訳でした。
さて、今度のR−22は近親、知人からの100%出資で買った。97年の医療法の改悪から、患者数はまた戻ったものの、減らされた点数の重みは大きく、収入からは、維持費を捻出するので精いっぱいだからだ。前の機体でかなりのところ経費が計算できているから、ヘリの整備会社に無理を言って、できるだけ合理的にカネカケナイ維持を行っている。整備の会社には気の毒だが、そうでもしなければ、ヘリという便利な機械も、いつまでたっても金持ちの道楽の大道具にしかならない。私の蓄積したデータが、そのうち、普通の若い人たちがヘリを共同購入したりして、同じように「正しくつかおうヘリコプター」運動に参加しよう、みたいなウネリとなってほしいのだ。人類の英知は人の為に使う。この精神が日本人に欠落している。自動車もしかり。大きな自動車を改造して、一人で転がし、町中に騒音と排気ガスをまき散らし、「迷惑かけよう自動車で」運動をしているようでは、未来が悲しい。
ヘリポートは「方安庵ヘリポート」と名付けた。苫小牧の活火山、樽前山のふもとにある。ただ、町中に近いため、その上での訓練は出来ないのがたまに傷。そこで、以前もめておいだされた、某自動車会社経営の飛行場と、ウルトラライトの飛行場を自分で運営している篤志家のK氏の滑空場を使わしてもらうことにした。前者の民間飛行場も例のパイパ-の事故みたいに,やっちゃいけないことをするような変な奴がトップを占めてた。こういうニオイがあると,私はスグかみついて,喧嘩になるわけだけど,ガラっと変わって態度も変わったようだ。「奢れるもの久しからず也」とはほんとよく言ったものだ。私も気をつけよう。
などと、物理的に再開したとは言え、毎回毎回緊張のフライトをしている。そう,以前に比べて半端な緊張ではない。なぜか。もともと高所恐怖症だったのだが、あの事故(前述)までは操縦していて気になる事はあまりなかった。今回は違う。やたら、エンジンとロータのタコメータに目が行くのだ。つねに細かくスロットルを調整しようとする自分に気づく。さすが強気の私も克服する自信は、今正直ない。けれどあきらめない。いろんな経験はプラスに働かなければ意味がないからだ。今日の日経に、〈以下も主旨のみ引用)「これが私の問題です」を日本人は,This is my problem とかやってしまうが,英語の国の人間は,This is my challenge とするという趣旨の事をとりあげて,前向きに問題を捕らえる大切さを述べていたが,その通りだろう。To become a rate pilot is that to overcome my fear . Anyway,challenge to operate it completely. 「良きパイロットになれば、恐怖も克服できる。とにかく、完ぺきな操縦にトライしょう。」と言うわけだ。ま、少し文脈は違う気がするが,今のような自分の状態を越えるには,立ち向かうしかない。
結果よりも,その態度が自分を納得させる。運は天にまかせて。21世紀に自分が生きることになることは,単に1951年に生まれた結果ではなく,生きることが出来る説明を自分でなっとくしなければならない。人は気で生きるものだろう。Mehr Geist!
追記、神戸のボランティアで山田和尚さんという人がいるそうな。「46年たった原爆の火」を携えて、徒歩で全国行脚をし、家を回っては、その火を分けている。いろんな計画をクーラの利いた部屋で策定する奴も必要なら、こう言う人も必要だ。心がこもらなければ、苦悩も喜びも伝えることが出来ない。彼がテレビのインタビューにこたえて言ったことが「私はこの火をパールハーバまで持っていきたい」とか。なんと、まるっきり違う土台で、同じような事を考えている人が同じ日にいるとは!是非あってお話してみたいものだ。私も、少しばかり、「原爆の火」を分けてもらった気になり、涙が出た。Come peace on all of us!(00.8.6)
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ロシアの注射おばさん!と日本の政府の比較
→いやあ、最近すごかったのは、あのロシアの原潜の事件の関連だね。特にあの公聴会?の場面。いくら軍人の家族とは言え、国家元首と自分の家族の上官達を前にして、堂々と文句をまくし立てるなんてのは、日本人ならずとも西側ではありえない。労働者の国家だったから出来ることだ。それよりすごいのは、その夫人の背後から、忍び寄るまるで魔女のような顔をした女。夫人の背後から注射をさす。それでもひるまない夫人。そして、再度抱えるようにしながら、また薬液を注入する(ようにみえたけど)女。まるで、スパイ映画をみているような錯覚に陥る。画像は非常に美しい。去年の4月に中国に行ったときも思ったが旧共産国の映像技術も今はすごい。
さて,何がすごいって、私の周りが言うには、「あんなことが平気でおこなわれるなんて、さすがもと共産国だ」と言うのだが、それはどうだろうか。あんなことは、日本でもアメリカでも英国でも日常茶飯と言っていい。ただ、それを事前にさせないように、マスク(隠匿のこと)する。発言者に金でもちらつかしたり、交換条件も持ち出したり、脅したりして、静かにさせるか、プライバシィとか称して、テレビカメラを入れない。注射にしてももろ「注射器」など使わずに、ハンコ状の「しこみばり」を使ったり、あるいは、事前に心臓マヒかなんかで殺しちゃったりするわけだ。あんなに平等に、敵対するものを対峙させ、テレビで流したりしない。KGBと結びつけてア-だコ-だ言う人もあるようだけど,KGBがあんな人前で分かるやり方で絶対するわきゃないじゃない。あれが,問題となるとは思っていないのはミエミエ。それよか,あんなに、衆目の環境で敵対するものを登場させ、それを退治するなんてのは、ドラマの中でしか起こりえないのが、我々の旧「西側」の常識だと思う。それが,我々の常識の怖いところなんだと思う。そうでないあの映像,そこがすごいのである。直ぐ洗脳されて、後日その女性が自分の行動を反省するところなど、〈本人かどうかわからないけど)もっとすごい。それがダイレクトにすぐ、他国に伝わるのがもっともっとすごい。これ以上の情報公開があるだろうか。いま、ロシアは情報公開と人権的平等で、世界一である、と言うのが私の意見だ。
以上から,我々が最ももってはいけない印象とは、つまり,みんなが言うように「あんなことが平気でおこなわれるなんて、さすがもと共産国だ」という印象だと私は思うがいかがか。もちろん、そこで行われたことが、真実でビデオ構成でも何でもないとすれば、あの夫人に対する政府のやりかたは、非人道的であることに疑いはない。しかし、それを正し、国民の批判の前に晒して、事態を改革するという目的を持つとしたらあれほどの「真実の報道」はない。それは、あのような被害者の立場に立たされたとき、一番その人々が思うことではないだろうか。エイズに苦しむ人たち、原発の事故に苦しむ人たち、水俣病の人々。彼らが、あのような事態をあのロシアの放送のような場を持つことが出来ていたなら、もっと、その改善は早く、的確だったろう。いまや,日本国民も結構主張をもっているからだ。
プーチンも丁度休暇中ですぐ、中央に戻り、指揮をしなかったことで国民にその信を問われたとき、素直にかえってすぐ謝罪しているが、それにつけても、あの東海村の事故の時のJOCや政府の態度、今回の某乳製品会社の社長の態度はどうだ。ロシアがアメリカの大統領のように直接選挙で選ばれるのではない以上,あのように,直接の国民からの抗議をいくら軍人の家族からだとはいえ受けるゆわれはない。国民の声に敏感に反応する姿は,やはりアメリカを彷彿とさせ,それが良いにつけ悪いにつけ,「国民の声の直達度」は日本より上であろう。隣の韓国。北朝鮮との国交回復の営みは著しい。曲折はあるにせよ,政府の実行力は確実にある。ITでの政策,そのためのインフラの整備など,特に回線料の引き下げ等,即効性のある政策は速い。ようは,政府がキチンと国民と向き合っている点においては,いまや日本が最下位であると言っていい。これが,クルスク問題での私の結論である。(00.8.28)
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オリンピック。ザ平和の祭典イコ-ル代理戦争デ-ス!の巻
→もうだいぶ経ったが,オリンピックが静かに始まり,にぎやかに終わったね。金をカケナイ今世紀最後で最大のオリンピック。とかくお金で批判があつまるが,それにしても,あのウインタ-ランチ会長は,終身会長なんだろうか。奥さんが会期中になくなったとか。フランスのトップアスリ-トが試合前に放棄して帰ってしまったり,柔道の誤審がもとで,おまえ死ねとか審判に日本人がせまったとか,いろんな尾ひれもついた。それにしても,あの柔道はよくなかったね。丁度夕飯つくっていて,テレビに振り返ったとき,例のシ-ンを見た。完全に決まった。疑いはない。ただ,返し技だから,外人の観念からすると,「やられながらやっつける」見分け方が難しいのだろう。審判のたっている位置がどうのこうのとか,技術的な事を言うひとも専門家にいるようだけど,それより,やられながら,やっつける柔道の返し技の奥義を理解する外人がすくないからだろう。また,篠原選手は,落下の時,肩の受けがくずれた。あのとき,やわらちゃんのように,すぐ,抗議すればよかった。田村選手のように抗議して,ちょっと頭にきて,相手をやっつければよかった。頭がしろくなって,その後の戦い方も,表彰台での姿も日本男児的でなかったのはチト残念だ。どんなことも,受けてしまっては遅い。完全に勝ちは勝ちだったが,オリンピックは,他の世界選手権などとは違って,友好的なだけでなく,歴史的に代理戦争である。戦争は負けたら終わりだ。すこし,気持ち的にまけてしまったのは,残念だ。だから,まわりが,審判をやっつけてもしかたがない。しかし,実戦だったら,篠原の勝ちは勝ちだ。あれが,道場じゃなくて地面だったら,相手のフランス選手は,脳震盪を起こしている。篠原は,肩をけがしただろうが,肉を切らして骨を砕いたほうが勝ちに決まっている。本人は誇りをもてばよいと思う。
野球も中途半端だった。全部プロのアメリカや韓国に対して,中途半端な混成チ-ムで勝てるはずがない。甘い考えはすてて,国の為に勝つ気迫で両国に負けてしまう。悔し涙を流す選手が気の毒だ。あのチ-ムを編成した,どっかのオエライさんは,もっと,そのヘンを考えないと,日本は勝ちを取りにいけないだろう。サッカ-は明らかに勝てた試合だった。だからと言って,PKでいれられなかった中田を責めるのは間違いだ。試合には力が均衡すると,5勝5負になる。今度は勝てるだろう。それはみんな感じた事だ。野球の場合は,次も韓国に勝てるとは思えないところに問題があるのだ。ド-ピングの問題。あの16才の美少女の毅然とした表情はよかった。医者的に言えば,あれはド-ピング戦争の敗北だろう。ル-マニア程度のと,いったら叱られるかもしれないが,増強剤は,エフェドリンとか,そんなものなんだろう。アメリカくらいの医療技術大国になると,現在の検査にひっかからない薬は,いくらでもつくれるのだろう。そう考えると,ド-ピングでいつも負けてしまう中国が,アメリカと同じぐらいメダルをとれることがとてもすごい。単なる友好,交流試合で日本人が勝てても,代理戦争であるオリンピックで勝てないのは,こういう「裏ワザ」も含めた,総合力でまけるからだ。戦争に勝つ,というヴァ-チャルな精神力もたらないように見える。
ま,こういった,一つ一つの「残念なこと」はあるにしても,いつもメダルの少ない陸上競技も含めて,荒れて問題ばかりの日本の世相を考えると,たいしたものだ。この前のオリンピックまでの様に,天才だけが,メダルをとりに行けた,一発勝負だのみの弱い日本から,選手の層が厚くなり,ころんでも次がいる,的な安心感がでてきて,頭でっかちの日本の感じが薄らいだ。そんな平和ボケのままの気持ち,家族の為だけ,周りの人のためだけにたたかって,個人の技術だけで,勝てる日本人を,きっと,アメリカや,ル-マニヤ,ロシアの選手達は,ほんとうに不気味におもっているのじゃないだろうか。ガングロもゲ-センも,チョ-オバカな日本人とおもいきや,その我が国の女性の躍進たるや,立派に,ヴァ-チャルなボンボンでも戦争に勝てる証明みたいなもので,スゴイと思う。
世の教育者やいまの若者をバカにする精神論者の人たち,(ま,私もどっちかと言うと,時としてそうだけど)いま,ストリ-トをカッポする日本人女性のスゴさをこのオリンピックでみなかったら,あなた方は,なにをみているのだろう。精神論に勝っていた,戦前戦後のオト-さんたち,あんた達の時代のオリムピックはどうだったい?それでも批判する彼女達にあなた方が勝てるとは私にはト-テイ思えないのである。ル-マニアとか,ドイツとか,イタリアとか,それに韓国も,人口からすると弱小な国の力はたいしたものだ。日本は1億2千万近くいるのだから,今の倍のメダルがあってしかるべきだが,倍の韓国に入賞に関しては,引けをとっていないから,これで良いと思う。戦争で肝心なのは,メダルの数より,兵隊の数なのは今も昔もかわらない。日本はこうして,負けたのだから。メダルは戦艦やまと見たいなものだ。それ自体に象徴的な価値はあるが,それで戦争にかてるわけではない。このまま,自然に実力がかさ上げして,人口にみあった,メダルがとれるようになることを期待する。(00.10.11)
- 明暗!パラリンピックとファントマン行くぞ!の巻
→暗いニュ-スばかりの中,パラリンピックの事は久々地味だが良いニュ-スだったね。この大会,何年もかかってやっと認知された感じだが。冬の方に比べて,なにかしら目立たなかった。しかし,選手たちの明るいこと明るい事。ちょっと,がっかりの部分。またぞろド-ピングなど健全じゃない事も認知と人気に比例して増えてきた事。どんなことにも,光と影の部分があるのは分かる。障害があるからと言って,そういう問題がないと短絡的に考える「身体的健常者」のおごりもあるかも知れないが,すくなくもその部分はそういう愚かな「健常者」から離れた存在であって欲しいと思うのだけど,不公平な期待だろうか。
ま,それは置いといて,私も泳ぐからわかるけど,上体だけであんなに速く力強く泳げるのなら,なんで「健常者」のオリンピックでもっと力がでないんだろうとつい思った。体位の差は,今度の日米野球ほどないんじゃないか。精神力なんじゃないだろうか。悔しくてなき,勝手泣き,プレッシャ-がどうのこうの。常に笑って41個のメダル本当に立派だ。福祉が遅れ,階段も建物も,車イス組に辛い事が多い日本。そのことが逆にあのパワ-になっているとかうがった見方の問題ではなく,単純にあの力強い明るさがパワ-になっているのだと思った。「顔でわらい,こころでなき」。「バランス」。これなくしては,生物はうまく生きていけない。もちろん,その総合である運動でもそうだ。パラリンピックで見たように,手足が揃っているというバランスもあれば,揃っていなくても代償することによるバランスもある。ま,後者は医者ながら心底すごいと思う。
話を別の意味のバランスの話題に移してみよう。パラリンピックの運動でのバランスのスゴさの対極にあるのが日本の政治の現状だね。ごぞんじ内閣の支持率が10%に近くなってきた。一説によると,20%を切ると再生できないらしい。それなのに,当の本人は,料亭人事を繰り返し,早慶戦で喜んでいる。自分のシチュエ-ションがわからない事は気の毒な事だ。何よりも,なんと愚かな人であろうという最悪のレッテルが貼られるからだ。このレッテルから無傷で脱却することは,残念ながら,心理学的にもほとんど不可能だ。別のたとえで話そう。自分が太っていると思っていない人に,ダイエットを進めてもほとんど成功しない。これは,自分のボディサイズに対して,頭のサイズ判断が「正常」と認知するためだ。これをファントマサイズと言う。人のファントマイメ-ジはなかなか突き崩せない。
我らがオブチ君がとりあえずとりまとめた色んな法案を検証し,玉石のように,経済や文化のジグゾ-にはめ込んでいくのが仕事だったはずだ。それを何を勘違いしたのか,クリントンやブレアと席が一緒だという事や,派閥や業界や,後援会で,自分の席がまだあると言うことばかりに目が行くらしい。作家の田中氏が知事に当選した県庁で,たかが一局長が,知事が職員に名刺を配ったと言っていいがかりをつけ,マスコミの前で怒りをあらわに破ろうとしたり,そいつがかついだ(かどうか知らないけど),もと副知事は派閥や業界や,後援会で,自分の席があるところで,満足げに握手を交わしていて,見事に落選だ。こういうのを昔から西洋では「裸のオオサマ」と呼ぶ。そして,この二つの人物はひどくダブル。それにマツザカ君も加えてダブル。いやトリプルか。彼らが忘れた事。それは,自らのサイズだけでなく,一人ひとりの選挙民やサポ-タは,実は一寸の虫なんだ,という事実である。それを,だから,「取るに足らない」と思うか「おそれるにたる」と考えるかで,無茶苦茶違いがでる。一人ひとりの選挙民やサポ-タは,実は一寸の虫なんだね。そのサイズに加えて,大事なのは五分の魂(たましい)を持っている事。五分だから20虫で一魂(いちたましい)になる。サポ-タの集団を10万人で一魂としたら,一サポ-タは,千分の一の千分の一の魂しかもっていないけど,確実にマツザカ君を嫌いになる集団にもなれる道理だ。
今,選挙に行く人は50%を切る。私もその一人だ。ということは,国会議員さんは,多数の魂で選ばれた訳ではなく,ましてや,その議員さんたちが選んだ首相なんてものは,国民の魂とはかけ離れている。私は,自分の国日本が,済んでいる北海道が,とてもとても好きだ。けれど,この議員さんや,首相を自分の「長」だとは,これっぽっちも思っていない。税金だっていやいや払っている。けれども,この人たちがひどく愚かな人たちだと,悲しくなるのは選挙をする人たちと同じだ。私はと言えば,首相が国民の直接選挙になるまでは,投票にはいかない意思を持っている。だからいま,日本が首相のせいで他の国の人たちに忌み嫌われても,ブツブツ文句は言うまい。ただ,これだけは,権力を持っている人にわかって欲しい。いまや,千分の一の千分の一の千分の一の魂たちも,集合することで力をもつコツをわかって来つつあるし,集う場も持てるようになったということを。「国民の意識調査」は,自分にいれてくれた人たちだけにされるわきゃ無いのです。選挙に行かない人にも,自分の反対の政党を指示する人にも行われるんです。もっと恐ろしいのは,自分の政党に入れてくれた奇特な人達がガッカリしながら「やめろ」と言うことでしょうね。そして,その結果はマスコミが皆に知らせるんです。そういう恐ろしさがわからないほど彼らの頭のイメ-ジがファントマになっちゃってる。
そしてもっと大切なのは,その力のある五分の魂さんたち自身が自分のファントマイメ-ジに気づいていない事です。国民は,いまや首相の首をすげ替えられる。電話で県庁の官吏の首をすげ替えられる。柔道の判定は覆せませんでしたけど。でもその国民がまだ「オラが村」の利益供与をこの愚かな長たちに要求し続けているのも事実でしょう。この堂々めぐりを「ファントマン行くぞ!」と名付けましょう。ファントマンは,どんなにすてきなUFOにのろうと,アンパンマンが正義の味方であることに気づかないのである。とにかくやっつけようと必死なんです。正義の悪者もないし,悪者が滅びることも関係ない。困ったことですね。大義,つまり正義はやはり勝つわけなんですのに。すくなくとも「正義は勝つ」と信じても恥ずかしる必要はないんです。
けれど少し良い兆候もある。最近,いわゆる,テレビなんかに出る「いっぱしの知識人」達の一部が,「我々国民一人ひとりが変わる努力がなければ,システムをいくら作っても屁にもならん」ことにきずき始めたからです。この「ちょっと一言」の最大のテ-マ。これが影響力を持つ一部の日本人にわかり始めたことは大きいかも。そう,正しく個人であること。それが一番われわれ日本人一人ひとりに求められている。そういうキチンとした土台をつくる自己教育が出来なければ,16才から刑罰があったのに,それを14才から刑罰を科して,少年犯罪が減るだろうという愚かな事を信じる人達から,少年は守れません。正しく一人であること。それをだれにでも主張できる個人。それをしかも,たいていの民族と違って,我々は宗教や儒教の教えに頼らないで成し遂げなければ21世紀は生きられないのですから,苦しい。神に頼らず自分を信じ,「正しい事は何か」を知らねばならない我々日本人はとても苦しい。そう,実は世界でとっても孤独な民族なのではないでしょうか。21世紀はあと2ケ月で来ます。です。(00.11.6)