Excuse me! This page is always Underconstruction!




→「諸行無常」。前回「サイナラじいさんも元気で長生きですねえ」と書いて何日もしないうちに淀川長治さんが亡くなりました。「ラ,ララミ-,ララミ-」のララミ-牧場の解説から,バヤリ-スのチンパンジ-とだぶって記憶に焼きついています。その後日曜洋画劇場,でしたか,の解説をされてました。鋭利な頭とソフトな喋り,自分にない魅力に触れ,大変大切に思える他人だったと思います。これでエライ映画人はほとんど草葉の影?
商品券。いくらdeal=取引といっても,あまりにヒドイ。第一15才以下の子供を持つ家庭と御老人に配布とか。老人と子供に金配るという発想が,現実になるおそろしさ。vertual realityならぬ real veruality ですよね。それを受けてしまったとき,あなたは魂を売ります。自治体で行う分は,「村おこし」なんでとてもグッドアイデア。しかし,セ,政府がねェ。印刷代だれがだすの。結局は現金なら1000円は1000円だけど。1000円の商品券ってほんとはいくらなんだろう,て素朴に思いません?
「ジジ」イ連合。なんだあれ。あんたとはやれない,と言って袂を分った人達が,普段からヤアヤア,なかなおりしましょう。ケドォ,政策論議も共同提案も国会でやればよい。連合を組む理由は唯一つとはなさけない。そのせいで自民党も派閥が分裂。自由党も一派閥だと考えたらどうでしょう。政党の政党である意味なんてないじゃん。今んとこ,自由自民民主党(略して自由民主党)とその諸派が一つ,社会党化した共産党が一つ,それに,宗教党の公明党が公明になって,また公明党で,エエ,それが一つ。あとは,庶民党と化した社会党とその諸派が一つの計4つで,なんやらドイツに似てきたわいな。
「質屋日本」。 自らの事で精一杯で,日本は全体に内向き。韓国は,私企業のツア-の形で北朝鮮に初の「表のトンネル」を堀り,中国は日本にやってきて,インドとパキスタンは例の核実験を逆手に核拡散条約への批准カ-ドを使い,イラクはアメリカを挑発し,あれだけ仲たがいさせようとしてもイスラエルとPLOは手を離さない。世界は,新しい生き方を模索し,金はなくてもやや元気?でいます。ところが,今日本が世界に示しているのは,銀行の情けなさ,政治的指導者の不在,それに困った国にただ資金の供給だけし,債権だけ増やそうとする傲慢さでしょうか。美しくないネ。
「師走」。あと1ケ月の1998年。今年はみなさんどんな年だったのでしょうか。やはり楽しくなかったかな。いいニュ-スなんてなかったものね。せいぜい,サッカ-でフランスに言ったこと,サッカ-でアジア大会頑張っていること。それに,長野オリンピックのスケ-トやジャンプやモ-グルの活躍。向井さんとジイさんが二度目の宇宙旅行にいったこと。私が子供の頃はアトムの時代。科学の力を信じ,21世紀になれば,誰もが仲良く,豊かな生活を享受し,敵と言っては宇宙人ぐらい,というものでした。あと二年をのこして,科学力は確かに予想と言うか,それ以上に進歩したけど,人間の生活は対して変わらないばかりか,やはり,第二次世界大戦の後遺症が続いている。金に泣き,武器に泣く。人のクロ-ンが出来る時代に,まだ,18世紀に産物の銃や,紀元前の産物のナイフで人殺しですよ。あァヤダヤダ!
「シラケ」流行語大賞。 「ダッチュ-ノ」や「軍人(?だったっけ),凡人,変人」なんかより,「観客民主主義」の方が良いンダッチュ-ノ。流行らなかっただけで。これが,もっとも今の日本をよく表現しているンダッチュ-ノ。お上=官僚のせいダケにする。あるいは,システムおたくの知識人。システムはたとえ作るのは自分の机でやっても走るのは他人だもんね。あるいは,仲間意識を常識だと思い違いするような「井の中の」いや「意のなか(なか=未必=イジメの根源)の」蛙的ぬくぬくなかま主義の大人と子供。ぬるま湯つかるおなじかっこうの蛙たちダッチュ-ノ。要は何事も他人事やお上のせいにしない,我々国民一人ひとりのフェアネスと言うか,本当の生活感というか,生きていることへの意識だと思うのダッチュ-ノ。なになに,ルセンダヨとか思ってるでしょう,と思ってるンダッチュ-ノ!(98.12.2)


めでたやと 川みおろせば おそろしや いまわのきわの 我が顔うつる--ピョン! としおこと作


→めでたやと 川みおろせば おそろしや いまわのきわの 我が顔うつる・・・ま,こんなことですか,ことしの正月は。みなさんどう?
 アメリカが,またまた,悪魔の囁き。日銀に,国債買えだって。幸い,速水さんも,宮澤爺さんも否定したけど。どうだろね。今アメリカは国民の貯蓄ゼロ。ほとんど,株とクレジットに使わされ,表面は順風がまだ吹いている感じだけど。一回恐慌が来たら終りだね。そんな奴の言うことなんか,聞くなって,だれか言っているよォ。さて,このところ、いつもは閑な我がクリニックも患者さんが多くなった。ほとんどは、流感の症状である。喉の痛みに始まり、熱がでる。熱は3日続いて微熱に移行する、それまで、なんとか食べられていた食事が喉を通らなくなり、衰弱、咳がひどくなる。ひどい頭痛、倦怠、筋肉痛、たまの吐き気などで、ひどく、全身症状が悪くなる。ハンで押したようとは,このことだ。こどもの場合は、最初に下痢や食欲不振などの消化器症状が強まる傾向がある。これが、今騒がれているインフルエンザ様の流感で、抗体はA型の抗体が上昇しているケ-スが多い。検出率は、同様の症状を示す人のやく50%位、いつもの様に、パラインフルエンザ3型の抗体が同時に上昇している(512倍から1024倍位)人がまま見られる。
さて、私はいつもこの時期になると疑問がフツフツと沸いてくるのです。概してうちの患者さんは、その主治医つまり私に似ているというか、妙に問題意識の強い人が多く、インフルエンザワクチン禍の不安にめげず、ワクチンを打つタイプの人が多い。そのように,つまり誘導的に普段話をする、という理由にもよるだろうが、手前みそかもしれないが、私の患者さんには,メリットとデメリットの秤が正確な人が多いと思っている。そりゃもちろん、老人はなかなか難しい。
治療の功罪の把握は人ぞれぞれで,慢性の病気,例えば高血圧にしてもそうである。多くの老人や中高年は、症状がなければ、薬は害で、それを出そうとする医師は、儲け主義だと思い込んでいる人の多いこと多いこと。これらの人に、高血圧はその約8割が無症状(と思い込んでいる)であること、従ってアタって、ベッド一枚(畳一枚の方が正確だが)を強いられるのは、症状がないため、服薬もせず、無理をしている人に圧倒的に多い事を話して聞かせるのは,まこと容易ではない。
話を戻して,そもそもワクチンと言うのは、ある集団の構成員の多くが摂取していないと、病気の抑止力は高まらないこと、そして、多くの人が摂取すれば、確率的に何人かはワクチン禍が生じること。この単純な科学的事実を理解してもらう苦労はさらに並大抵ではない。先人達が、恐ろしい疫病の実態を目の前にして、やっとプロパガンダし,広めてきたワクチン摂取による疫病の抑止を無理解なマスコミが、その災いだけを伝えたため、なんと国が集団接種をやめてしまう時期があったのは悲しいことだ。そのことが、国民の「ささえあう健康生活」の意識を急速になえさせた結果が今のインフルエンザ死亡率の上昇につながっている。
しかしこれは、マスコミや国の問題だけでなく、そもそも(ここいらから,dr.heliの言い方になるよ,なるよ,皆さん)公的存在感の欠如した日本人の利己的人生観に根差していると思う。まったく、いつもは、よこならび意識から、私の個人主義の主張を徹底的に無視するおらが村の善人達も,この時ばかりは、見事にえせ個人主義に立ち返るのだから恐れ入る。赤信号もみんなで渡れば怖くないくせに、自分一人がワクチン脳炎にかかるのは嫌なのだ。つまり皆んな本物の脳炎にかかるほうが、一人ワクチン脳炎にかかるより、ましと思えるのかな。それとも、信号も皆で渡れば、車も止まる、見たいに、皆でかかれば、脳炎にならないとでも言うのだろうか。チト進んで,自分の権利を守るには、集団のそれを(自分をいれない)守る,と言う真実と、集団の権利を犯してでも自分を守る権利も存在可能な時がある真実は、矛盾しない。けれど,自分の権利を守るには、集団のそれを犯しても良い事は、個人主義の事象の中には存在しない真実を多くの日本人は知らないように思えてしまう。
臓器移植にしてもそうだ。自分の心臓パ-ツを守るには、集団のパ-ツをストックする必要がある事実と、集団のパ-ツのストックには反対しても自分の心臓パ-ツを守る権利はある事実。だが、自分の心臓パ-ツを守りはするが、集団のパ-ツストックには賛成しないということは、個人主義の事象には存在しない。判ってもらえるだろうか。いやダメだろうな。これが、日本人が世界の人々に嫌われる所以である。自己の権利を主張するには,その集団の権利を守る為の我慢もまた必要である訳だ。
  世界とはなんだろう。それは、いまや狭まった町内なのであるか。つまり、世界の人々は町内会の同胞であるか?そう思っているあなたは、いつまでたっても「井の中の蛙」である。町内に1000人いて、自分はその0.1%の存在だとして、世界に5000000000人いて自分はその0.00002%だと考えているあなた、あなたも「井の中の蛙」である。正解は、あなたが、丸小優美恵だとしたら、町内会でもそうで、世界でもある、という事ではないか。ただ、他の大切な人が、999人から4999999999人に増えただけなのである。(99.1.31)


→まず,結論その一を放言しておきます。脳死問題と日本人。日本人の精神性では脳死の受け入れは困難だと思う。
レポ-タの質問でもそうだった。つまり,その時にならなければ判らない,というのが大体の人の考えではないだろうか。
 死や不幸はとりあえず,それを迎えてから考える。人はいつかは死ぬと認識し,その時をどう迎えるかをあらかじめ決めるなどと言うことは,己が元気で,「他人事」だと思えるときは判らない。地震しかり。戦争然り。それは,頼まれれば,金ぐらいは贈るよ。不幸は元気な時は他人事なのである。これが,東洋的とも違い,西洋的とも違う,日本的精神性だと私は思っている。島国根性とは思わない。色んな島国にも行った結果だ。
 マッカ-サの言葉,「日本人は12才とか」。確かに幼稚と言えば言える。自分を日暮しに,刹那的にとらえ,世界との距離を正しく保って走ることをせず,「取りあえず,一生懸命」。けれどこれが,今の日本を支え,これほど,地図の片隅の国ながら世界に名を轟かせたのだ。イタリアに行ったとき,子供に,日本のない地図を見せられたことがある。20年前はそんな国だったのだ。
 人間は,明日死ぬと思えば,死ぬほどの努力などせぬものである。井の中の蛙のように暮らせるから,カゴの中の鳥のように,世界一長寿の寿命を世界一のダイオキシン濃度の中で,鷹揚にいきられる。本当のところは「自分事」と認識できても,それでも「とりあえず他人事と思える」そんな楽観的精神性こそが,日本の国民支え,GDPを支えてきた。それが,今は世間=世界から非難を浴びている根源となっているようだ。
 つけ付け加える新発見としては,その精神性こそがまた,自殺の多い原因ともなっていると考えている。さらに付け加えると,以下で述べる自由という本質への屁理解にも通じている。かごの中の鳥,井の中のかわず,そして,狭い洞穴の山椒魚は自由を知れない。
 自由とはなにか,どう選択をするのか。取りあえず,自分は,という尺度のなかから,どうやって,世界と自分との距離をGPSのように計れるのか。そう,GPS程日本人に似あわないものはないなあ。
 さて,本論。ドナ-カ-ドを持たない自由が認知されて来てはいるが,それは,「しったこっちゃないさ」の自由と誤解=屁理解されているのではなかろうか。本質的に理解できるのだろうか。どうだろう。自由と言われれば,「なにもしない」のが日本人の特質かなあ。自由というのは意志が伴う。自由とは勝ち取るものだ。「ラ,マルセイユズ!」あの,美しいオッパイを出した自由の女神こそが,ドナ-となる自由だ。それは,移植の是非を問わず,その人の崇高な善意である。
 さて,救急医には,完全な公開を望むものがあるという。それは,死に神が近づいた人をその手に委ねようとせず,完全と追い払うという神聖な宣誓だろう。そのことは医師として真に共感できる。だから,ドナ-カ-ドを持つ,臨床的脳死の人がいるという医学的事実を公開したのだろう。それ応じた御家族の理解たるや頭が下がる。
 けれど,私が変に思ったことがある。それが「某高知の某日赤病院」であるとマスコミが報道したことだ。臨床的脳死とは,昨今議論されている脳死のガイドラインつまり法的脳死とは別物で,例えば,私が,私の患者を見て診断する程度の事だ。つまり,法的に脳死である人を脳死者として完全に公開するのは神聖な宣誓であっても,まだ,法律的に死んだかどうか判らない人を場所の特定付きで公表する事はプライバシ-の侵害だと思うのである。アメリカでは,場所の公開はしないという。当然の事である。また,悪い事に,脳波の機械が法的脳死を容認しなかった。それでやり直しになった。アメリカでは,脳波は脳死の判定には入れられていない。私自身は精神科医でもあるので,脳波はアメリカさんより信じてはいるが,それにしても,科学的限界がはっきりしている判定機凖を法的脳死判定に加える楽観性こそ,どうせなら躊躇してほしい。
 そのあと,患者の家族が,レポ-タによる,例の「聞き込み」つまり,「・・さんは,高知市・・・で生まれ,近所の方によると,とても・・・・」というプライバシ-の侵害を受け憤られたようだ。その後病院も怒ってマスコミをシャッタアウトした。その時の主治医の顔が目にうかぶ。御家族の気持ちも大変よく判る。
けれど,一度公開したものを途中で止めれば,その目的がどんなに正しくあっても,元の木阿弥である。公開された情報は,その是非に拘らず途中でシャットアウトしてはならないと思う。
 とはいえ,正しい目的,大きな目的のためには,義憤をもってモット-を曲げるのも,また自由ではある。主治医はそうした。今後,ドナ-カ-ドを持つ人がためらうのを防ぐためであろう。彼もまた「自由」を行使した。
 話を元に戻すが,今回のことで,一番誤りだと思うのは,「それ,高知だ!」と世間が知ってしまった事だと思う。なぜだろう。あの報道は,「タレントの離婚と同じ」とは,有名な渡辺淳一氏。その通りだと思った。けれど,マスコミには,「the time」もあれば,「pinky erotic times」もある。彼らがどう報道しようとそれも自由だ。(私個人は,「pinky erotic times」の記者が,私の患者のそんな報道をしたら,恐らく記者を殴る,と言う条件付きではある。それも私の個人的自由だ。)
 マスコミの考えは,このケ-スは初回であり,今後の大変よい事例になったから,次からはもっと配慮する,という論調が多い。ジャ,今度は人身御供じゃないか。これも日本の精神性である。犠牲はつきものか。 あるドライバ-が何年車に乗っていようが,人をひき殺したら,それで二度と通常の車社会にはもう戻れないのも自明の理ではないのか。この女性,倒れてスグの頃,植物状態への移行期だったかも。その間に,自分の脳死状態を発表されてしまったかも知れない。彼女のプライバシ-と悲しみは戻らないのである。
 では,後でまとめて,プライバシ-を熟慮したうえ公表したら,という考えもある。「情報公開」に必ずしもリアルタイムの必要性はないとは,某有名セメントの会長のテレビでの談話。そんなことはない。情報を正しく公開するにはリアルタイムは必須アイテムである。
 重くなりすぎた。目を転じよう。柿沢氏問題にも共通点がある。都知事選挙の醜態はすさまじい。風見鶏のように,政党を泳いだ人の不断。自民党は,追放まで考えているなか,都知事になって,無党派だった青島知事の二の舞いか,それ以下になっても出たがるのは何故?すくなくも,それが都民や,都を首長とする都道府県自治区の住民にとって,それがプラスになることはありえないと思うが。
 君が代問題のも共通点がある。私の時もそうだが,学園紛争がひどかった広島では,唯一のなごりと言ってもいいこの問題。なんと文部省は,通達で斉唱を強制。なおかつ,残り一割の斉唱しない学校に指導を行おうとしている。そんななかで,教職員の組みあい,生徒と県教委の板挟みになったとか。これは,イジメ的殺人でないのか。自殺とは一体どういう死に方を指すのか。いじめによる自殺は他殺ではないのか。この場合の自由の保証とはどうなされるべきなのか。個人的自由を行使する自殺という概念も今時怪しい。
 更にホンジュラスやコロンビア問題。ハリケ-ン,地震も適当に起ってくれなければ,報道も援助も難しい。NPOも金銭難。経済がよくなければ,しかも,お金を貯めたり,気持ちに余裕がなければ人助けは出来ないのか。人助けの本質は一体なんだろうと問いなおす。
 今回は解決論であるべき結論その二は書かないでおく。すでに,他のコラムで言いたい放題いってきた。もう言い飽きた感がある。そう,日本において,善意,そして個人と社会の関係,村社会と世界の繋がり,などなど,能動的自由=自我の確立という西洋的精神性から言えば,成熟はまだほど遠い。だれかの小説ではないが,「12Y.O.」か。これじゃ,マッカ-サの50年前と同じではないか。
 遠い高知でお亡くなりになってしまった,約同年の女性に心からお悔やみと,御家族のお気持ちに,一医師としてこころから感謝をします。あなた方の行為が日本の医療の一つの礎になることは疑いのない事実であるから。移植を受けた方達の回復が彼女の自由を保証するように祈っています。(99.3.3ひな祭りに)


→今日のクリニックは突然暇。ついでに,風邪をひいて吐き気と腹痛がある。診察ベッドで仰向けに寝ていると,コソボの事が頭にフッと浮かんだ。病気とはいっても私が惰眠をむさぼっているこの時間にも,朝の冷気を無理やり引き裂きながら,爆風が栗毛の頭の子供たちを吹き飛ばしている。
 ミュンヘンに住んでいたころ,地階にユ-ゴ人の家族が住んでいた。きっとセルビア人だろう。ドイツでは「二等国民」(注:私の発言ではありません)の彼らはそれでも幸せだったろうか。灰色がかった目に栗毛の5年生位のびっくりするほど綺麗でかわいい姉と,5才位の弟がいて,私がポンコツのベンツを修理していると,手をつないで,こわごわ覗くのだ。同令のドイツ人の子供は,冷徹な脳を感じさせる,冷たい目の表情がある。西洋人形のようでヒュ-マチックでない。それに比べてスラブ系の彼等は顔の輪郭の柔らかさが,目の色と良くあってヒュ-マチックなのだ。もちろんこれは,一般的な比較ではなく,当時出会った子供たちだけの特徴であったかも知れない。
 そんな思いでのある子供たちが成長して今,祖国で南方系の同胞達を虐殺している。私は,涙が出てきた。3日前だったか,インドで地震があった。きっと今でも沢山の人が瓦礫のしたでもがいているのだろう。ホンジュラスのハリケ-ンやコロンビアの地震はどうなったのだろう。
 クリ-ム色の清潔な診察室の天井からは,彼の地からのチリや埃や爆風や人肉の焼ける臭いは漂ってこない。もともNATO軍といっても,ほぼアングロサクソン軍が中心で,ラテン系や他の少数の人達は困っている事だろう。アメリカ軍は,その母国になんらチリや埃や爆風や人肉の焼ける臭いをもたらさない。兵士の家族以外は。アメリカと言う国は,なんら自国に空爆を受けていない,と言っても過言ではない。私の記憶に誤りがなければ,フ,それは怪しいものだが・・,僅か東海岸とパ-ルハ-バの限定された地区だけが,そういった無差別の殺戮を受けた。しかもハワイではハワイ人が被害にあったはずだ。軍と軍人だけなら,それは仕方ないじゃないか。しかも100倍にして返したくせに。現に今もユ-ゴでの戦闘は,それを正当化の理由にしているのだから文句の言える道理か。それなのに,彼ら自身はその記憶を決して忘れない。50年たった今でも。まるで,第二次世界大戦の戦勝国だけが,21世紀を迎えられるような,そんな世界のしきたりに,泣いている子供たちが,今,イマ,いま居る。
 40年台,日本では核兵器を使い,50年台ベトナムでは化学兵器を使った。80年台湾岸ではハイテク兵器を使い,一体ユ-ゴでは何を使うのだろう。power forceが均衡を成立させる,と言った,根本的誤りを正さないかぎり,歴史の遺産もその歴史を未来に伝える子供の心も,憎しみや復しゅうからのがれられない。
 フと,頭の中の映像がニュ-イングランドにいた時の情景に移った。友人のアメリカ人の若い医師のワイフが,車検のとっくに切れた,フ,車検なんてもともとないが,まっすぐ走らないワ-ゲンで,リンゴ狩りにつれていってくれた時の事だ。ニュ-イングランドの秋は美しい。コダックのフィルムのように,オレンジが基調になった透明な空気に,真っ赤なリンゴ。目がねをかけた柔和なワイフの顔と摘むリンゴが揺れるように豊かに揺れる胸。私は彼女が好きだったが,そのことはアメリカを好きにさせた。彼女もまたアメリカなのだ。私はそんなアメリカを好きになっていた。
 けれど,power理論に関しては,彼等とその手にする銃器と思想は,その存在自体がヒステリックだ。日本人は集団になると強い,と言われる。「赤信号,皆で渡れば怖くない」それは,自我の未発達を示す。逆に,アメリカは集団になると弱いようだ。「赤信号,皆で渡っても轢かれるぞ,銃を片手に右左」だから,武器を持つ。panic disorder 強迫神経症といやァ言いのに,自分たちが言い換えたこれこそが,彼らにピッタリした疾患名だと,診察台のベッドの上で,体位を変えながら一人ごちた。(99.3.30)



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