Excuse me! This page is always Underconstruction!




→朝、朝刊に目を落とす。一面に大蔵省の官僚が100人以上も処分を受けたと報じている。そのことに私はすくなからずショックを受けた。東大神話が崩れた。
昨年来、様々な経済ニュ-スが流れでる。テレビと言わず新聞と言わず怒涛の勢いだ。それは見るものを襲い,聞くものを喰らい,凡そ人の心を蝕み、萎縮させ,鬱々とさせる。そう、まるで雪崩である。
 世間の人々の大半は凡人と言われる。かかる凡人はおしなべて勤勉で,実直である。そうではないか。すなわち家族や知人との和を好み,僅かな自分の幸せを感じながら,日々を一生懸命生きようとする。まるでアリではないか。昔からそう言われている。今、雪崩がアリを呑み込んだ。
 考えてもみたまえ。東大が東大である事。それは,彼ら頭の良い同胞が,我々凡人を上手くコントロ-ルし、守ってくれている筈ではなかったか。彼らが,メリケンやオランダなど西洋の国々,中華,南越などのアジアの新興の国々,そして,イノンド,ハッカ,クミンなどを使いエスニックな料理と油を自由にする国々などと互角に渡り合える日本国を支えてくれていた筈だったのではないか。それが雪崩れた。崩壊した。自信を失ったエリ-ト。ううむ。アリは霧散するしかないではないか。
 元来私はアリでありたかった。しかも名前付きの。そう努力してきた。妻に捨てられようが,人に変わり者と言われようが,付合いが悪いと言われようが,自分勝手といわれようが、アメニモマケズ、カゼニモマケズ、名前付きのアリであるべく努力してきた、そう思っている。
今になって思っている。私は少しく間違っていたかも知れない。名前付きのアリでもしょせんアリはアリなのである。それは、なぜか。少し解説してみたい。
 今おこっているこの不況は,得体の知れない心気的な呪縛のようである。いまや流動する「お金」は,国境を越えた。円やドルやマルクやフランと言うブランドではなく,国境を越える通貨となった。
 ほんの10年前まで,だいたいにおいて,お金は「金や銀の代わりのお金」の意味でしかなかった。それがどうだろう,いつのまにかお金は,株や信託と等価的になった。ネット通信のように世界を一人渡り歩き,株や信託のように意志と幅を獲得した。今、我々アジアの人間は、不況の真っ只中にいる、と言われる。そうだろうか。それは単にバランスの問題ではなかろうか。つまりはアジアでお金が使われなくなって価値が下がると,アメリカが景気よく使ってしのぐ。富の分配。それが出来るうちはそれでいい。しかし,もし,アメリカで,お金が使われなくなったら,さらには世界中のどの国もお金をつかわなくなったらどうなるか。お金の価値が一遍に下落する。アメリカではバブルの崩壊,それ以外の国でデフレによる通貨の切下げが起り,一巻の終りにならない保証があるか。
砂上の楼閣と言う比喩がある。まさに現在の日本は、世界の経済ストレスの応点となっている。
「金(ゴ-ルド)」の影武者であることを忘れたお金の独り歩きは,それ自体がデリバティブのようなものだ。相場の世界である。お金はいまや大豆なのである。いや,大豆以下である。大豆なら,不作の時もあれば,豊作の時もあり,自然の摂理にしたがうではないか。大豆なら困ったアリもしまいには食べれるではないか。しかし,影武者であることを忘れたお金は,市場と言う悪魔が操作する呪縛である。ダ-クサイドオブ パワ-、つまりバ-チャルリアリティなのだ。実体はないが、ありあまる邪悪パワ-がある。越え太り、食べ飽きた人々を奈落の底に突き落とそうと、狙っている。
それにもかかわらず、おらがむらの政策をするもの達も執行する者たちも,現在の不況の意味する事をまったく理解していないように見える。そう、いまのお金の意味のパワ-を理解しているとは到底思えないのである。
 一例をあげよう。かって,銀行はすなわち政府だった。不況だろうが、戦争だろうが存続出来た。経営も必要なかった。ただ,凡人を馬鹿にして政治を語っていればよかった。後始末は、政官と企業がやってくれた。そう思わないか。ところが今,銀行はやっと,遅まきながら市場に支配される事を知ってしまった。不良な銀行は潰れる事を学習した。ところが,一銀行が一資本に過ぎない事を外圧によって理解したとたんに,政官と政府は,昔ながら悪癖で税金を使い不良債務を補てんしてしまったから恐ろしい。名目は,「貸し渋り」を改めさせる,とある。しかし事実は,そのお金を銀行は自分で使って,年度末決済をしたではないか。つまりは自分の赤字を埋めて、民に放出しなかったではないか。そして、今また,16兆円,という巨額な税金を公共事業に使おうとしている。名目は、公共事業の発注による、景気の呼び戻しとある。しかし、公共事業のおおかたは,土木建築ではないか。このように、不況のトップである建設業の不良債務を肩代わりする事と同義であることをアリはすでに知ってしまっている。愚かしい。アリは見え透いた嘘を平気でつかれる位のどうでもよい存在なのである。国は、その国民をなめきっているように思える。市場のノ-の意味をかたくなに拒んでいる。 苦しんでいるのは国民一人ひとりではないか。アメリカのように,国民の直接選挙で大統領が選ばれる国では、なにがしか、そのあたりの感覚が違うのだろう。彼らのように、国民の貯金を信託などの投資に使わせて,一石二鳥を考えるのならともかくもまともだ。それを我が日本国のエリ-ト達は、なんと,我々アリの血の出るような努力で貯めてきたそれを金融と建設の不況二業種に税を取り立てて自分たちだけで使ってしまおうとしているのであるから,恐れ入る。
まあ、私個人としては、たった200万ほどの貯金がどうなろうと、たいした痛手はない。しかし,一生懸命共働きして,いつしか,親子で新しい家に住むことを夢見てきた,大半の我が働きアリ達は,どうやったら報われるのであるか。我が日本国とは,ことほど左様に腐っている存在なのだろうか。 例に話を戻そう。ホっと一息の銀行と建築は,献金としてそれを政治家に還流し,かくして,いままでの日本の悪しき姿を繰り返すのである。市場、日本以外の市場は、そのことを学習し尽くしている。株価と為替がノ-を繰り返している。それでも我がエリ-ト達は来るG7で16兆円のお金のバラまきが、評価されると本気で考えているとしたら、完全に狂気の沙汰である。苦し紛れにお金をバラまく癖はいい加減卒業したい。
あの湾岸戦争。苦々しい思い出ではないか。その湾岸戦争でも、日本がお金をバラまいた。その結果、世界のひんしゅくを買った。
この経済戦争。たとえ,彼等の愚かな試みが成功して,いつもの様に世界の人々に嘲笑されるだけで無事終わり、我々の世代の国民がつかの間回復し得たとしても,我々の孫の代が,赤字国債として抱え込むことになる。借金のツケは、血筋が返す。ヤクザ世界日本国の掟である。学歴社会,日本的資本主義社会,士農工商の社会の掟である。
 私は,日本国国民として,大変かなしい。わたしが,アリでなかったら何か出来たかも知れぬ。学歴社会に便乗するか,財力を持っていれば何か出来たかも知れぬ。はたまた政治家であったなら何か出来たかも知れぬ。少なくもこうならないよう,竿さしたであろうと思うと大変かなしい。私は,こういうわけで,今アリであり続けたことを少しく後悔しているのである。
 学生時代の紛争して日和った友たちの記憶,奥尻の悔しい記憶と、敬愛するヘリの教官K氏の死によって、私は啓発されて来た。私ができることはなんだ。医療者として,金もうけをせず,人の役にたつことだった。家族のない人生だもの。危険もへちゃらさ。ヘリコプタで,災害とか有事の際,人助けできないかなあ。そう,とにかく人の役に立つこと。それプラス,孤独な人生に多少はパフォ-マンスを加え,それを元気の源にして,暮らしたいものだと今日まで考えて来た。
それが今,独身であるための多大な税負担。それに加え,官僚の身勝手な薬価改定。某なにがしの身勝手な拓銀の倒産。それやこれやが重合し,今年の4ケ月で,前年の同時期の16%も患者が減った。手当ての必要もない,所謂「おとくいさん」がいなくなったので,しかるべくして減ったのなら,まあ良いが,そうではない。試しに急病センタで勤務してみればよい。肺炎をおこしかけた夫が,妻の心配してとめるのも聞かずに,高熱を押して,「明日も4時に仕事にでないと辞めさせられるので」とたいして効くとも思われない,「せめて一本のかけ注射」を求めるトラックの運転手を目にするだろう。それを私はとめられない。だれが悪いのかは皆が知っている。誰が被害者かも分っている。しかし,医師としての判断だけでそれを私はどうしても止められないのだ。患者の減少に関しては,もちろん私の慢心による医師としての怠りが招いた事態かもしれないから、心機一転頑張ってはいる。とはいえ、かかる減収で,唯一の誇りだった空まで奪われようとしている。もちろん、いつおこるかも知れない災害の為に,年間400万のヘリの維持費を払うこと,自分の命を危険に曝す事,姪っ子のように思っている娘さんをはじめ、たった3人もの職員の生活等の現実を思うと,もう無理は出来ないと思っている。そう、わたしは、やはりアリだった。けれどもそれこそ一寸の虫にも五分の魂ではないか。
 自分が五体満足で有る限り,それ以上に、身内身勝手な専門家としての医師ではなく、「グロ-バルな町医者」で有る限り,再び夢の復活の日をにらんで,今はただ,毎日を耐えて、粛々と歩くのみである。
 ドイツ語で,進歩をFortschritt(フォルトシュリット)と言う。Fort-前へ,Schritt-一歩。素敵な語感だと思わないか。フォルト-シュリット。もろにドイツ色のミュンヘンで暮らしながら,私は,この単語がとても好きであった。ザンザ、ザッザ、ザンザ、ザッザ、Fort-schritt,Fort-schritt,--schritt,--schritt、一歩,一歩。
 そうそう、言い忘れたが,それでも,休みごとに,大空を飛び回っている。飛べるうちに。この前も、晴天乱気流に巻き込まれ、死ぬかと思いつつ飛んだ。楽しくもアリ,苦しくもアリ。
オイ青空 見えぬ荒野のふところよ オイルまみれた 我が顔に汗  (98.4.29)

→相変わらず,不況風がピュ-ピュ-吹いていますね。いやあな世の中です。
ひょっと,目をあげれ見ればもう21世紀がそこに見えるじゃありませんか。21世紀にはいったら,鉄腕アトムやウランちゃんの住む明るい日本が見えるはずだったのに!そう思いませんか?世界は一つにまとまり,共通の宇宙からの敵,気の狂った金の亡者や科学者に,立ち向かう筈でした。けれど,その21世紀をあと3年で迎えるのに,そんなおシルシあったっけ?
 私は1951年生まれ。ヘリで落ちたりしなければ,癌で死ぬとして75年間は大丈夫のはず。つまり2025年没となるはずです。結局癌は克服され,100年生きれば2050年。考えてみると,平成13年つまり2001年生まれの子供はなんと,2100年没ですよ。もう22世紀も見えちゃいそうな,そんな医療の進歩からすれば,未来は明るい,ハズ。遺伝子の解析も進み,遺伝子に異常や突然変異を生じれば,それを直すことも出来ます,ハズ。年をとる,つまり加令に関係する遺伝子も,ほぼ分かってきましたしね。
 けれど,現実に目を転じれば,相変わらずの異常気象,インドやパキスタンの時代錯誤的核実験,アジア発の経済危機がついにアメリカの市場に忍び寄ってきました。確実に描ける未来と,現実とのギャップの大きいこと,大きいこと。今日の日経によれば,パキスタンのコメントでは,「日本に核があったなら,広島・長崎はなかった」から核がいると。わ−い!
これには,みんなこぞってヘリクツダ!!と決め付けますけど,父が広島,自分も御幼少のころ広島にすみ,高校ではインタ-アクトというクラブに属して,平和公園で,観光客あいてに,原爆資料館や原爆の被害についてにわか「語り部」をやった経験からして,パキスタンのこのパキちゃんの言葉は正しいと思います。だって,アメリカだって,ロシアだって,英国だって,フランスだって,中国だってみんなそう思ってるから持っているんでしょう。これが「核抑止力」の意味でしょう。
したがって,広島・長崎のようになりたくない国は全員これから持とうとするでしょう。そもそも,数カ国だけがその「抑止力」を行使することに意味があるなら(核拡散防止条約)それを無効にするには,
 1.その数カ国が核をすてる
  2.その他の国が全部持つ
の2つしか解決法が無いわけですよ。インちゃんもパキちゃんも2番を選択したわけです。
あのあたりにそういう考えになりそうな国はいくらでもあります。いつまでたっても,子供扱いにされてうれしい国があるかよ。アメちゃんよ。な-にがセンシンハチカコクだってのよ?(ナ,ナントロシアがはいってる。わけはたった一つ!)戦沈核家族(??)の間違えじゃネ-ノか,てこえが聞こえて来そうですよね。
 昔,ファントマ電光石火というハ-ドボイルドが流行ったことがあります。007系のス-パ-マンが一時期一世風靡した時代でした。そのファントマと言うのはなんでしょう。外科系の世界にはファントマ・リブという現象が良く知られている。事故とかで手足が切断されたあと,その手足がまるでついているような感じをもつこと,なんですね。実在しない手足を動かせると感じたり,痛みを感じたりする。これは,視床というところで,身体図(ボディシェ-マといいます)が頭のスクリ-ンに描かれていて,自分が行おうとすることは,このスクリ-ンで写しだされてから行なわれるわけで,あたかもコンピュ-タの画面と,人工の手足(マニピュレ-タという)の関係のようです。
 この現象,つまり私はこれを広くファントマと呼んでいますが,現実と,思い描いた,と言うか,あるべきすがたのギャップがファントマなわけです。肥満がなかなか本人に病気賭して,認識されないとか,精神分裂の特徴が病識のなさであることも,この,スクリ-ン上の自分と現実,つまり,人から見た自分とのギャップに気付かないためです。これも私はファントマにいれてます。こうしてみると,認知の障害であるこのファントマ体験は,実は,自我の障害(例のシャレ神戸殺人事件(3頁参照)等),離人症(神経症,うつ,精神分裂など)などでも起っているし,肥満や,脳卒中などでも起ります。しかも,このファントマはもっと普通の暮らしの中でも沢山あると考えられます。
 ここで,現代うつ病のメカニズムを簡単に解説しましょう。ストレス学で有名な河野・田中両氏の共著「ストレスの科学と健康」から引用すると,もともと,執着器質,未熟性格な人物が,物質文明の各側面,つまり,管理社会,高齢化社会,福祉社会,学歴社会に組み込まれる訳です。その結果,ライフスタイルがゆがみ,役割の喪失,限界を強く感じる,あるいは福祉ですと,なんでも補償に頼り,学歴の中に浸り自立が遅れ,逃避的にモラトリアム(執行猶予=責任取らなくても良い時間=ぼくまだ学生だから,みたいな)にどっぷりつかるんですね。それらがそれぞれの家庭の立場に従って家庭内の葛藤を引き起こし,発症するわけです。「ぼ,ぼくは本来こんな社会で不当な待遇を受けるはずの無い人間なのに,だれも分かろうとしない。生きていく勇気すらもてない」訳ですよね。これもファントマですね。
 我々の普通の暮らしの中,と言うと,ストレス学的には,ストレスが沢山あって,その結果生じるファントマ,と言うことになりますか。これを私は「非スッキリ症候群」とよんでいます。ナンダカだるい,とか,ナンダカ食欲がない,などこの,「ナンダカ」と言うまくら言葉を付けた60問のアンケ-ト調査を行って報告したことがあります。その結果分かったことは,ストレスを強く感じるメカニズムと,先に解説した現代のうつ病メカニズムが非常に近い,と言うことでした。
 つまり,内因性(遺伝病の意味)のうつだろうと,外因性(神経症という意味)のうつ状態だろうと,ストレスという同じ強い刺激でビョ-キになるわけで,考えてみれば,神経症と言えども,その人の体質つまり遺伝形質が基板となるんですから,言ってみれば,内因性外因性と言う別け方自体にあまり意味がない。
むしろ,ストレスが加わるとヒトは(イヌでもネコでもサルでもコトリでも)
1. 精神症状
2. イメ-ジ障害=ファントマ
3. 自立神経症状(一般には自律神経と書きますが,この方が好きです)
がおこるということです。
1.がつよい代表はうつ病。2.がつよい人は脳卒中後遺症や肥満 3.の代表はかぜ症候群です。
 そうすると,肥満した人で,風邪を引きやすく,全然毎日スッキリしない人は,そのストレス病のチョ-代表,ということですね。
 そして,アメちゃんも,フラちゃんも,わがジャップちゃんも,その国民もつまり我々もみんなそうですね。チャイちゃんやインちゃんやパキちゃんやキタちゃんはアメちゃんたちがあんまりつっつくからキレそ-で,バクハツシソ-です。こわいですね。(98.5.30)

→ワ-ルドカップの予選も終り,日本は3敗して終わり。残念でした。しかし,悔しさが残ったね。みなさん。悔しかった。
 まずはなにから話しましょうか。そうだ,ジョ-はシュ-トが決まらないと笑いました。その笑いに批判もあったようです。私が最近読んだミステリ-に警察の事情聴取の後,玄関から出たとこで笑った表情をスク-プされたため,それが決めてで,犯人と誤解され,人生を間違えた人の話しがありました。その人物はただ,近くにいた少女に笑いかけただけだったのです。ジョ-も悔しさから笑ったのでしょう。しかしそれは,「個人」の理由なのです。いちいち弁解しなければならない理由なんか,人の前では何の役にも立ちません。
それに,マスコミの組織対個人技?そりゃなんじゃ?レゲ-ボ-イズ達の動きもパスも,日本より秩序だっていました。ファウルはえげつなくないし,ボ-ルを掴んでからの走りとシュ-トの正確さは素晴らしかったと思います。イギリスで普段戦っている人が多いせいか,とても紳士的で素晴らしかったと思います。本場イギリス人のサッカ-よりよっぽど紳士的でした。けれど,岡田ジャパンの批判や分析は聞けても,新聞やテレビでそのことに一言もそのことに触れてないようです。知るかぎり。みなさん,敗けた人を批判するより,勝った人をほめましょう。レゲ-が素敵だったジャマイカ,なんて。
 要はジャマイカボ-イズの方が岡田ジャパンよりスマ-トだから勝ったのです。組織が敗けた?何じゃそりゃ?ほんじゃそりゃ。ちょいと話かわって,マラド-ナの幼少時代からサッカ-富豪になるまでの軌跡をたどった特集を見ましたか。お定まりのサクセススト-リとして描かれていましたが,インタビュ-された人々の表情をみましたか?この手の特集を沢山見たので誰だったのかは定かでないが,マラド-ナと同じく,サッカ-の国民的英雄が麻薬を使用しようが女性を殴ろうが,国民一人ひとりに本当に愛されているのが印象的でした。そしてレゲエボ-イズも同じでした。愛されること。尊敬されること。中継を解説するラモスの落胆の表情と怒りが甦ります。某国営放送であのように非中立的解説があるのも興味深かったのですが,彼の落胆とコメントはまったくその通り。「勝とうと言うハ-トがたりない!」
 ジョ-が帰国後の記者会見で語ったように,「攻撃の柱と言われ,プレッシャ-があった。・・点が取れなくて恥ずかしかった」のが彼らの真実でしょう。しかし,ラモスの感じたことは私も感じました。読者の皆さんもそう感じた人が多かったでしょう。彼らの理由はもちろんあるでしょう。ジョ-の笑い,中田の中途半端な遠いシュ-トは,パスが出来ない状態での判断だったのでしょうし,監督の選手交代のタイミングも理由があるのでしょう。しかし,ジョ-はとにかく笑った,中田はやけっぱちだった,岡田監督は遅かった。とにかくノロノロと感情障害者(軽症うつ病)の群れのようでした。言い過ぎかな?でもね,私の職業的目からは,かれらが,不和に見えたんです。不幸に見えたんです。クロアチアの時のような元気も熱も感じなかった。あの時は感激したねェ!に,ニホンも本当にうまくなったなア!(ウル_ウル),って。
 理由は2つ。
  第一にサッカ-は代理戦争である。
第二に「個」の喪失。
 第一は,ナチスとワ-ルドサッカ-の映像の関係,ミュンヘンオリンピックと二つの世界大戦の関係が象徴してます。いつも言ってるように経済戦争も同じです。勝つことに集中する。勝たねば,というプレッシャ-に敗ける,とか言う次元ではないわけです。なにしろ国が滅びるんですから。そういえば,ラモスが,戦況への感想をレポ-タが聞いてもサポ-タが日本ガンバレ,ピ-ス!?,しか,マイクに叫ばないのを見て,ちょろっと,「ミンナも本気で応援してるんだろか」見たいなことを言ったような。そのとおりです。戦況は刻々と変化する。サポ-タはそれを気持ちで援助する。そんな気持ちが伝わってこない。サポ-タもすでに敗けている。私はと言えば,例のシャレコウベ事件の犯人の少年が連れていかれた警察所の前のレポ-タのカメラに向かってピ-スを送っていた少年達と映像がダブりました。残念ながら真実です。
 第二。これは私のいつもの持論。「個」のないシステムなんて,コ-ヒ-の入ってないクリ-プみたいなもんです。これって本当にわかってない。たった11+1人でも独立国です。チェスと同じ戦争。チェスも一つ一つは一つの駒でしかないが,女王から始まり,個性がある。将棋でも同じですよね。レゲ-ボ-イズの方は,ちゃんとそれぞれの個性があるのに,日本は,「兵隊」,「フ」の集まり。「フ」の戦闘能力が飛車・角なみに高まっている状態。でも飛車も角もいない。本当によくやりました。飛車・角抜きで。強いて言えば,「カズ」がその辺だったのかもね。
 マラド-ナの例やロナウドの例を上げるまでもなく,強いチ-ムの選手はヒ-ロ-に,喜んでしかも尊敬を込めてパスを送っている。「アトはたのむゼィ」みたいな。そのフォワ-ドは,サポ-タや他の仲間の元気球をパワ-の糧にしてシュ-トする。ゴ-ル前での球の取りあいは,それが,たとえスイ-パが上がってきていても,もう個人技でしかないわけで,我が日本にはその覚悟が足りないように見えます。そこで,何としてもお仕事しなくちゃ。それは自分との戦い,と言うか,それが正確にできてこそチ-ムの一員である,というプロ根性というか。システム,システム,組織,組織,という言葉漬けにされている我ら日本人は,一流と言われる人でも,その辺が国際基準からすれば甘いし,それよりも,根本的に勘違いしている気がする。「自分が」という枕ことばは,「一人幸せになればよい」に短絡するのが日本人。それは違う。「みんなと幸せに」に繋がるのが本当の個人主義です。
 つまり,「個」であること=わがまま,はみ出し,ではなく,個がシステムや組織を作るのです。それぞれを尊重するからシステムが存在出来あがる。個性をなくすことがシステムの一員になることではない。くどいけど,日本人にはどうしてもそれが分らないような気がするのですよ。サッカ-に戻ればすなわち,個性の強い人間=カズをはずすことがシステムを守る事になる,と,もし誰かさんが考えたとすれば,経済戦争での敗北と同じことをサッカ-戦争でやったことになるでしょうね。気の毒です。そう,有名なアサイと言う写真家も似たようなことを言っていたような。
 そこで,このシリ-ズ4ペ-ジ,「・・ゴジセイはマル貧」の中にある,日経の言葉を再び引用します。「・・・たどりついたのは,われわれ一人ひとりが自らを改革しないうちはこの国は再生しないということである。官と民,中央と地方,企業と株主・従業員といった関係を一新する。それが2020年に向けた改革だとすれば,最後は個人の生きざまとか,精神のありように行き着く。・・・企業人に限らない。個人として自立しているかどうかを基準にすれば,多くの日本人は低い値段しかつかないだろう。・・・「みんなはそう言うが,おかしくないか。」そういう独立精神のないところに「知識」は生まれない。日本の閉塞をうち破るためにも,知識社会に向かう世界に遅れないためにも,われわれは自分に責任を持ち,自立する必要がある。国は会社にぶら下がるのは,もうやめにしなければならない。繰り返すが,個人の自己改革がなければ国に活力を吹き込めず,日本は老いてゆく。われわれが改革の主役なのだ。・・・」
 そう,我々が主役でござんす。それに中田君,ジョ-君,松永さん,橋本君。あんたたちも主役です。一イレブンではない。一閣僚でもない。主役で一員。そこでは,没個性による無気力無為は存在しない。だから,そのことで,プレッシャ-に敗けることはあまりないのです。なにしろ,自分の思いを遂げることに全力投球なんですからね。で,敗けるとしても,きっと自分に敗けるのです。
 はなしついでに。我がヘリコプタ談義でも,この5年間,「一次救急ヘリ」,というのが理解されない。ほとんどの相手が,いわゆるインテリといわれる人々であるだけ,いい加減嫌になってきてます。大きなヘリコプタで,何人かの専門チ-ムが,重装備をして,高規格救急車のように使うの(これを二次ヘリつまり救急・防災ヘリとします)は理解される。が,医者と救命救急士か看護婦がヘリで,現場に二人で向かう。これが一次ヘリです。軽症は手当てし,重症は高規格ヘリに任せる。救命率はあがるし,何よりも金がかからない。今の日本では,医療法の関係で,いくら救命救急士が腕が良くても医師の指示が無ければ挿管など出来ない。蘇生は最初が勝負。指示を待っていては救命率が上がるわけがないですよね。でも,この主張が,なぜか,私,つまりdr.helicopterの見せたがりだと,とらえるられるのですから変,変,変。だって,劣等生の私に出来ることグライなら,インテリの皆さんならもっとうまくやるでしょう。
 日本,ことほど左様に,摩訶不思議な国です。愛するほどにそう思う。ラモスさん,もともと好きでしたが,私はあなたが大好きになりました。こ,こんな日本を愛してくれてありがとう。(ウル_ウル)みなさん!ラモスに感謝しましょう。いまどき,日本を好きになってくれる外国人なんて珍しいのですから。(98.6.30)



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