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sentence2811/父の軌跡その2 ......

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sentence2811@幼児教育の専門の方であればcasa dei Banbini(こどもの家),モンテッソーリの精神”Hilf mir,es selbst zu tun!”(自分で出来るように手伝って!)という有名な言葉を知らぬ方は無いでしょう。その方の著書も多数あり、福村などから出版されています。その甲斐もあってか、社会的に貢献した人物として西ドイツ政府から勲章を貰えたのがボケる前で、このころには、村八分にしていた広島の医師会の先生達もだいぶ認めるようになっていて、そのままボケで一生を終えましたから精神活動が終了するのが速すぎた感があるとは言え、ハッピーエンドな人生だったというのが母の考えです。
というのは、最初は、どこか偏狭な医者社会では、精神科で脳波とアミノ酸とモンテッソーリを振り回し鉄格子を取るような危ないヤブ医者だったわけで、細分化された各専門がいてそのなかでさえ、追い付かないような膨大さの知識のなかで四苦八苦する通常のお医者さんからは、そういう専門の間をつなぐような医療は承認されないのでした。すでに20年も前から細分化してしまった張本人の欧米の医者からcomprehensive(包括)とかintegrated(統合)とか冠する医療が確立していく時代に、このような、人を検査で診断し、薬物で治療し、社会復帰までを「自分で」考える医者が雑駁でまやかしに思える日本の医療はどこか不思議な存在ですが、当時一般社会では、それを立派だと見抜いたわけですから捨てたものではない。医師会よりも家族会と世間や国が認めた彼の医療は大変立派でした。逆に私はと言えば、彼とは正反対でまったく小物で即物的でありますから、尊敬はしこそすれ、その偉業を継ぐなどとは夢にも考えず、袂をわかちました。
けれど、良く考えると、彼の夢はヘリコプターで往診することでしたが彼はベンツにしました。それも小さな2.3リッターです。わたしはあの某三菱自動車の紋章と区別のつかない紋章には興味がなく、ヘリコプターにしました。かれはコンピュータを作りましたが、自分でプラスドライバーは使わなかったので、私は自動車でもコンピュータでも自分でプラスドライバーを使いました。彼はバイオリンとチェロをやり九大オーケストラ時代に岩城氏に才能がないからダメだといわれたので私はピアノにしました。また彼は犬と仲が悪かったので私は犬と暮らしています。
私が父の元をさった理由は大きくわけて二つ。彼は障害のあるひとと手をつなぎ、運動会をしましたが、いつもではなく、ほとんど、本に囲まれて執筆したり講演したりしました。私は障害があるひととつき合うには24時間いっしょにいるべきだと思いましたので、自分には出来ないと思い 、坂上教授が好きになって小児科になり、5時までは一生懸命一緒にいて、暇ができると、大学のコンピュータ室でU女史に教えてもらいながらクレアチニンの上昇加速度をフォートランで計算させてました。彼は人が好きだと公言し、部屋に閉じこもったのでおかしいと思ってました。私は,人が苦手なので子供と機械だけを相手にしました。この点が一つ目。二つ目は親の七光りにうんざりした点です。効率を捨て、一から始めました。彼との共通点は今に思えば、記号とか数字だと思います。それと手作りでしょうか。二人とも数学は苦手なので、数理ではなく、単に記号好き、Der Numeriker(記号屋)なんです。数字もアルファベットも音符も皆同じ。なんでもプロセスして、記号化するという遺伝子を彼から貰いました。それ以上に自由に考える力を貰いました。これはかれの教育の賜物で、大変感謝しています。
こうやって記述して比較してみると、相異点が共通点であることに驚きます。かれはボケましたので私の理論でいけば、私もそうなるでしょう。すでに兆候も出ていますし。いま、彼の仕事は哲学家である弟が立派に継ぎました。私は家を出たから密葬の施主は弟が執り行いましたが、その追憶談は本当に真実で、涙がでました。弟も立派に成人しました。そしてことほど左様に、父の存在は焼き場の豪火と共に記憶になってしまいました。生きていることは、それだけで、まことに融通の効くことです。わたしも含め、生きている人は、係わって死んだ患者さんや、まったくしらない同じ世界の死んだ人の分まで、一歩一歩確実に歩かなければいけませんね。(060620)