Back to Howawan's Homepage to index to Yahoo's Homepage

sentence2810/父の軌跡その1(0606) ......

inhalts

sentence2810@ 平成18年6月7日の正午過ぎに父が息をひきとったと連絡がありました。五十半ばになって初めての身内の死でした。父は、糖尿病高血圧から脳血管性痴呆となり最後に胃癌の再発と腹膜播種だったようです。
..少し恐縮しますが、ほとんど一緒に暮らせなかった彼のことを想いでから書いてみます。文献などで検証せず、思い出すまま書きます。正確でないところもありますが、私の記憶つまり人格の一部は、それで形成されていますので、、その方が自然だと想いますので、検証しません。
 。。彼の幼少時の事はまったく分かりません。満洲で開業する医家の三男坊で、長男が不明、次男が後の自衛隊、と言うわけで、ほとんど強制的に稼業を継がされたのでは、と思います。といって、当時は、精神科というと医者扱いされないところもあり、産婦人科の祖父からは精神科に進むといって,半ば勘当のような状態だったようです。私が10代目の医家ですから、戦中戦後のこういったやりとりは大変重かったと思います。北杜夫さんと同じ教室の先輩ですから、彼の小説にもN先生としてちょいと出てきて、そこに記されたように、とにかく「勉強好き」な医師でした。これも又、他科のみならず精神科仲間からも疎んじられた脳波なるものを広島の片田舎の精神病院に持込み、これを診断の武器に大脳生理学的治療を実践しようとした志の人でした。脳波は後にてんかんの診断には欠かせない診断装置になりましたけれど、当時では大変なフロンティアでもありました。だから、それを使っての診断とか治療とか、おそらく人体実験のようなとらえかたをされ、不遇だったと想像されます。
そのせいか、横須賀の国立病院から広島に移った暫くは、貧困にもなった気がします。ある日,風邪で寝ていると背広を着た男の人がどやどや入ってきて赤い紙をそこら中に貼り、祖母が私をそれから庇うように抱いていた情景が時おりフラッシュバックのように見えるのです。40年以上経ってそれを母にいうと、そんなことは無かったと否定するのですが、それに類することがあったのは事実だと思います。その前後めざしやみりん乾しデビラばかりが食卓にあって、しばらくしてから、宇品線の踏みきり横にある中華そばの店に日曜になると3人で出かけて嬉しかった情景も同時によく浮かぶからです。そうなってからは暮し向きも良くなり、壊れそうな古い家からその隣にあった築山がある大きな家に引越しをして,父はそこに「教育医学研究所」という私設の研究所を建てました。生活は大変楽になり、小学校の友人が温泉バスツアーのお客のように訪れるようになりました。社会が彼の「脳波」をまやかしではないと認めた瞬間でした。
これに関係する興味深い想い出があります。その研究室にデンと置かれた奇妙な畳一枚の大きさの機械。子供心にダイヤモンドゲームのようなピンが沢山刺さったこの大きな道具をわけも解からずそれはたいしたもんだと思ったものですが、実はこれはアナログのコンピュータであり、電気的な診断を解析し、数値化して客観化するたいした機械だったのです。多分某日本光電の作ったものだったと思います。後にデジタルコンピュータにより、アルファー、ベータ、ガンマ、デルターなどの各波形を分析し、補間係数を使ってグラフ化するだけではなく、色分けして脳に模した形にプリントさせるとかしておりました。この脳波トポグラフィーは、1980年代にあたかも某大阪大学で始めたように記憶されている方もいらっしゃるでしょうが、33才ぐらいで広島に精神病院を開業した父が、その脳波の研究の仮定で編み出した、彼のオリジナルであることは、研究所の「教育医学研究」という国会図書館に置いてある雑誌に克明に書かれ、また私が証明するところです。
更に、例のアナログコンピュータは痙攣性疾患の治療としてはGABAを中心とするアミノ酸バランス食をとりいれ、そういう食事とそうでない食事のグループを発作の回数で比較したり、観察室から課題をあたえてその行動の軌跡をプロットしたりするのに使っておりました。この上野の補間式を脳波に採り入れた手法は医療の学会より工学の学会で評価され工学の学会の講演に招待されたりしていたと思います。さらにイタリアの修道女モンテッソーリのあみ出した幼児の敏感期の教育を障害児に適応させる。精神障害者の作業療法にイスラエルの共同生活キブツの概念を入れたキブツ村、精神障害者を檻に入れてはならんと解いたフランスの精神科医ピネールに習って、当時常識だった、オリのついた病室を一部保護室を除いて全廃してみたり、などなど、とにかく理論と実践のひとでした。