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sentence2809/愛国心と日本人(0605) ......

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sentence2809@ 朝起きると、まずトイレに行く人も多いだろう。ここ北海道の冬はやはり寒い。暖房は効いている。だから私の知っている京都の冬のように、零度近い廊下を「おおさぶ!」と白い息を吐きながらトイレにむかって小走りすることはない。氷点下というのはもっともっと寒い。家屋全体をポリウレタンで断熱斷冷をしても、室内温度計が26度を指していても、それでも伝わってくるそとの寒さというのは一種格別なのである。京都と違って、冬も半袖で過ごすヨーロッパのような北海道ではあるが、半袖からでた腕に感じるのはやはり、毅然とした冬の寒さなのである。そう言いながらも、その冬の厳寒は、やはり隔絶されているのである。北海道の家は、外界をきちんと遮断するところにその特性がある、と私は思う。そとは外、なかは中というわけだ。
 第二次世界大戦の敗戦からは、アメリカの属国になり、共産主義から守ってもらう代りに主義主張を捨て、安穏と暮らしてきたが、もともと日本は島国で、内と外がはっきりしていたから,民衆の生活感にそれほど緊張も屈託もなく、むしろアメリカは敵国だったにもかかわらず、アメリカ イコール 外として、アメリカを通じて世界と関係を持つことで、開かれた日本という錯覚のなかの半世紀だったように思う。アメリカの手のひらに乗りながらむしろ自由を謳歌することで、内と外はまたまたしっかり保たれた。21世紀になる前後から外がかまびすしくなる。イスラム世界と国家アメリカが喧嘩を始め、同じモンゴロイドの近隣の国々がその国力を増し、日本と政治,産業,文化などさまざまな分野で競走を仕掛けてくるようになったからだ。
いわば,外からつつかれる感覚で,日本が極東アジアの戦略の舞台に載せられていく。もともと政治や軍事などに積極的に主義主張をしていかないと、自己主張の強い国ばかりに囲まれている日本に不利なことは、自明の理ではあった。その最たる問題が,近ごろ険悪な領土問題だろう。我々日本人ですら、何をいまさらという感じがするほど対応がきわだって遅かった。戦争には負けたが主権を失ったわけではないのに。では、ことほど左様に日本人は鈍なのだろうか。
 春は曙。有名な枕草紙のすべりだし。春というのは心が温かくなる季節だ。それまで木枯れていた裸の枝に,ふと気がつくと,硬い新芽が膨らみつつあるのを発見する。この瞬間のうれしさは一塩で、おもわず、感嘆の言葉が口をつく。桜は、春を表現する日本の国花であり、ソメイヨシノのあわい桃色の花びらが点描画家の絵のように、ふわっとひろがりながらもその輪郭しっかりありなおかつ景に馴染んでとけこむ独特の美しさは、富士山を飛行機の窓に発見したときと同じく,日本人のこころをつよくうち、感動の涙が浮かびはしないか。夏は夜。月がシンシンと,路傍の草と共に尖った砂利を敷き詰めた道を照らしている。凹凸のある道には砂利の三角帽子がたくさん整列し、「気をつけて踏まないと転ぶぞー」と言っているようである。透明は暗闇は濁りを排して,しかも他の季節ならば,恐ろしく感じるような帳の中の夜の大気を不思議と和ませる。
秋は夕暮れ。赤トンボの羽が夕陽に映え,小さな黄金色の閃光をあちこちで放つ時、少し薄暗くなって寄り固まった木々を湛える丘の方から「かあー」とカラスのなき声が聞こえる。不思議と浮かんでくる「柿食えば。。。」の句や鐘の音。暗くなった丘とは反対側の山の木々は、赤とんぼの羽と同じように、木々たちがたたえる全ての葉の色をあざやかに夕陽に映し出している。その美しさといったら!冬は雪降り。足を取られつつ頼りなく歩きながら,目が薄闇になれるころ、窓あかりで浮かびあがる雪の帽子が軟らかく、全ての屋根や物置の輪郭を円に描く山里の家々.人々の家の中での生活は如何ばかりだろうか。囲炉裏にかざす手や鈎にかかるやかんなどなど。。だいぶ枕草紙と描写は違ってしまったが、全て昭和は30年頃の記憶である。
季節が移ろいゆく中で、心がゆるんだりひきしまったり。それに加えて正月の初詣や夏祭りなど,四季折々の行事が刻まれた一年という彩色。これが日本の原風景。それに浸りきり,かつ日々の人との係わり、こういった普通の営みのなかに生きるのが幸せと感じる日本人は、実に外の出来事にうとい。それらはおしなべて「他人事」になってしまう。乾燥したアルファルトに騒々しい電車の音が響く。クーラからの水がしたたる40階のビルディングに白いシャツがちらちら飛び交う姿が見える。そして忙しく、しかも誇らしげに動きまわる老若男女の足,足、あし。何百万もしそうな大型の液晶からは、世界のニュースや激動が目まぐるしく映し出される都会の街角。これは日本にあってあらずもがなの日本である。それは日本人には現実とは言え、既に外の世界でもある。
「うち」と「そと」を使い分ける日本人とその心情。
私は、今のような世界的状況だからこそ、あいそ笑いやウスラ笑い、そしてややはにかむ,ちょっぴり外からみると愚鈍さの滲みでるがごとくの、しかも、外人にはやたら親切だが、行動が意味不明の日本人本来の姿を取り戻すように切に願うのである。いやいや全ての仕事をデスクトップPCで行い,ネットの中を泳ぎまくり,寝るとき以外は常に数台のディスクがキィーンとうなっている環境の、このワ、タ、シが、今それを節に願うのだから、我ながら笑止千万。
われわれは,我々独自の美意識とゆたかな誇りを持っている。しかもそれは、他の国々の人々のように、銃弾とか言葉では表現できない愛国心なのである。そのことを卑下することはない。あなたが,外人さんのように「うち」「そと」を使い分けずに、常に緊張の強い不毛の争いのなかに身を置いた時、あなたは、日本人の心を拉致されたのである。(060522)