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ぱり巴里シャンゼリゼ(0801) ......

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みなさん、明けましておめでとう!
(私からのご遺族へのコメント:以下「英霊」という言葉は日本国の為に命を落とされたすべての魂に対し使わせていただいており、この文章はその全ての魂に如何なる不遜な考えを持っていないことをここにはっきり宣言致します。安らかにあられますように。また、みなさんにもうしあげますが、私は合祀には賛成してません。そのプロセスがはっきりしないからです)
地震や災害など人々の家庭の破壊される事ざまは、よのなかに蔓延している今日この頃。戦争もまたしかりだ。これらのものは有史以前よりあり、いつまでたっても無くなる気配がないばかりか、未曾有の情報の媒介に乗って瞬時に穏やかな人々の生活に送り込まれるありさまで、いかにも喉に刺さる幾多の魚骨の様だ。
昨日、この問題にふれた内田康夫の「靖国への帰還」を読んだ。戦争犯罪や靖国問題について、祀られた「英霊」自身が死ぬ間際にタイムスリップして現代に出現させ、それに語らせるという手口だ。その文学的な出来は別にしても、確かに考えさせられた。思いを廻らせれば、このあたり、つまりタイムスリップなどを扱うSFの作品というものは、たとえば、ご存知ゴルゴ13シリ−ズの漫画(というと作者に怒られそうだが)の間の紙面に、あまり売れてない作家の短編でなんども読んだ。だが、この手法を使って、既に60年以上前に靖国に祀られた「英霊」に今の日本や靖国を語らせるつまり、靖国に祭られた生き神に語らせるという手口は斬新ではある。本の半ばに、生きた英霊として、他の英霊の代弁者として毅然として話すと決意し、テレビにまで登場し、靖国論を展開する主人公が、最後に「英霊とは黙して語らないものだ」という反省をして、過去にタイムスリップしてしまう下りは、作者のいつもの狡さ(たぶん、ご本人は正義感と言うと思う)を端的に顕しているようで思わず苦笑させられたが。
広島はガイジンが多い。ちょっと思ってみる。。。
とうさん:「昨日東京行ったついでに、靖国言って息子に手を合わせたんじゃが、やっぱり、あの東郷さんが一緒におってんは許せんのう。」
かあさん:「ほうじゃのう。許せんのう。じゃが、もう、聡は帰ってこんけんのう。立派な子じゃったのう。」
とうさん:「ほうじゃのう。アメリカさんもピカ落としゃあがって、清もタエも居らんようになってしもうたし、寂しい正月じゃで。」
かあさん:「ほうじゃのう。ありゃ、ケントさん、どうしんさったんかいのお」
ケントさん:「How are you! I'm just arraived at my japanese Home from America!! 」
とおさん:「ほうか、今ついたんか。よっしゃ、みんなですしでもいくかいの。」
ケントさん:「Oh,Ebi, Ika, Tako, my sweets!」
かあさん:「ほうじゃのう。みんなおらんようなったが、こげな子がおったん忘れとったで。」
とおさん:「まあええわ。もう昔のことじゃ。ほれ、行くで!」
。。話を戻すが、まことに、一つ言い得て妙なのは、たとえ悪人でも処刑を通じて死んでしまったら、まま許されるという日本独特(というか、神道の教えなのだろうが)の精神性をこれらの問題の中心に据えることには、私は大変賛成である。等しく英霊。まあまあ、そんなに戦犯合祀合祀と言わずとも、ええじゃないか的な寛容の精神は、誠に日本的と申しましょう。このあたりは、執念深いというか、過去を決してわすれない、今は過去の土台の上にあるのです、的な周辺の国々の精神性とはまったく相容れず、さらに全然西洋的でもない。昨今の諸外国との軋轢や、湾岸諸国でのおそろしい殺戮を目の辺りにして、日本人に違和感があるとしたら、日本人が、平和に腐れ、鈍いのではなく、まさにこの点なんだろうと思う。たとえば、イスラエルでは、キリスト教徒回教が同じ聖地であるから、より新しい回教が誕生して以来、ず-っと争っているわけだ。これが日本人ならあたらしい鎮魂や礼拝だけの新聖地を作ろう、なんてことになるかもしれないが、はっきり言って、かの国では考えられない。だから、最後の一人になるまで争いは続くだろうと思う。されたことに対するリベンジ、つまりは「メには目を」、は彼(か)の聖典にもあり、そのような大切な生きる根拠(自爆して死ぬ根拠でもある)を彼らが葬ることは無い。武力をもってその均衡の上に成り立つ危い和平などあり得ない。「核抑止力」的発想は、屁みたいなものだと私は思う。臭いだけで、力にはなるまい。
国家アメリカは表向き仲裁という形を取ったり、オイル権益という形で、そのうちギブ&テイクが成立すれば、何とかなるだろう、的な楽観論を放縦し、イスラエルやパキスタンの行動を各国の解釈のするがままにしているが、どうだろう。過激な回教徒に対しての彼らの主張する形の和平など、私は過去も今もそして将来にもあり得ないと私は思う。ただただ、接点は残すものの、政治や分化に介入せず、等しく兄弟としてそれも多胎の兄弟のごとく、上も下もなく、一方のみが追従したり、迫ったりせず、そのままの形で受け入れなければ、共存などありえない。日本も、近隣諸国に対して、「すまんことじゃ」と言いつつも、気がついたら靖国神社で、英霊に手を合わせ、その午後には、知人の娘の結婚式に教会に出向くことに疑問を持つではない。多分は、イラクやアスガニスタンの普通の人々も、平和な状態では、人の主張や過ちに、つまり、正しい人にも、その人に糾弾される人にも、「まあエエジャないか」的に接し、それよりも自分たち家族の小さな平和をまもろうとする人々だろうと信じている。けれど日本のように、無宗教的な発言を許されないから、一部原理的なひと、追求するひとの問いかけが健在化し、彼らによって意見を求められれば、「いやその通りだ」、「いやそうじゃない」と迫られてしまう事になろう。それぞれ、自分の神を信じているから一度、踏み絵をさせられそうになれば、否が応でも態度を決めなくちゃならない訳だ。神に言い訳が立たない。つまりは、一部の人間が、神を踏み絵にして、大多数の小市民を煽動することの可能な国々なのだと思う。
日本では、彼らのような神も経典もない。私は「無宗教です」「そうですか」という会話が可能な数少ない国だ。学校や社会という緩やかな枠の中では「村は八分」である。ほぼ8割の人は「まあエエジャないか」的に許しあうことができる特殊な精神構造をしている。それが分かるまでに、まわりの国々は、日本人を軽蔑したり、糾弾しようとするだろうが、ただただ、我が道を行けば良いのである。そして今度こそ、彼らの挑発にのって、再び天皇を担ぎ、皇国日本を汚される思いで自ら踏み絵に近寄り、無理に憂国の士たらなければよいのである。そんなことをしなくても、皆な、この日本が大好きなのだから。たとえまわりの国々にとって理解しがたくても、曖昧で、「まあええじゃないか」的な、平和主義が日本人の日本人たるゆえんなのだろうと思う。。。。て言うか、皆が、日本の庶民のように、「まあええじゃないか」の気持ちになれば、争いは、やがて、消えてしまうのではないだろうか。
今や、電波が飛び交い、インターネットが茶の間にあり、江戸時代のように、「島国」ではないから鎖国状態にはなり得ない。開国をしなくても、門は開いている。だから現実には、これからも戦いもあれば、先頭を切るようなせめぎ合いもあるだろう。ただ、昔のように、開くものを師、最初の大人を親と「刷り込まれる」ことだけは避けよう。鎖国をしても、8割のええじゃないか人間がいれば、2ー300年は持つことは江戸で証明ずみだ。だから鎖国せずに、自らを恥じることなく、2ー300年持たせれば良い。この2008年はむしろ、日本的「まあええじゃないか」の生き方を世界に問う良い機会にすればよい。今の親が子を、子が親を殺し、、、の世相もまた、「まあええじゃないか」の気持ちを忘れた、さまよえる鬼のなせる技。彼らは、自ら踏み絵に落ち込んだ言霊、いや鬼の魂なのであろう。人を殺したいと思ったら、この川柳?をどうぞ。
ひとごろし、考えながら漬物を。パリ巴里シャンゼリゼと音がする。
ひとごろし、考えながら漬物を。パリ巴里シャンゼリゼと音がする。
ひとごろし、考えながら漬物を。パリ巴里シャンゼリゼと音がする。。。(ついに踊りだす)。。。。。
まだ、殺したいかなあ。。。?
去年の流行語は「偽」今年の流行語は、「まあええじゃないか」で生きましょうよ。世界の皆さん!(080111)