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sentence2911/弔電とミンエイカ(0711) ......

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このあいだ、大学の小児科で若造のころお世話になった、「保母(ホボ)さん」ことNさんが亡くなった。まだ60台のはずだから、病気かまたは不慮の出来事だろう。ずいぶん昔に書いたように、私は、若いころ「5時から男」研修医だったから、諸先輩にはずいぶんと鍛えていただいた。5時から帰らないようにだ。こちらも5時には、「どうしても帰る」訳だから、其の替わりに、早朝より病棟に出、看護婦さんの嫌がるのをごめんごめんしながら、採血をしたり、受け持ちを診たりしたものだ。
3ヵ月ごとのローテーションで、新生児(ここは一番辛かったねえ。ここでは、とっても「5時からは」通用しないし、第一、天井が低い。閉所恐怖症のわたしにはことさら辛かった。ここの地獄の3ヵ月以外は乳児、幼児、学童の病棟へとじゅんぐりと回るはずが、最後の2年などは、ほとんど乳児に行かされたのには訳があるのだろう。坂ちゃんの鬼の回診の1時間まえになって、突然オーベン(指導する医師)から、病欠の先輩のプレゼンをさせられた事もある。それを言い渡したアイツのニタニタ顔はいまでも記憶にある。当時の小児科には珍しく、乳児病棟には準ICUのHCUがあって、挿管やら動脈確保の必要な赤ちゃんが絶えず数人は居るのである。まあ、そこでずいぶんと鍛えられた。だから、諸先輩の目を盗んでは、4C (学童病棟)に時折上がって、ほっとさせてもらったのがNさんと、「会話」可能な慢性疾患のガキどもだったと言う訳だ。そのNさんが亡くなったのである。万感の思いだ。わたしは、実家とやや疎遠なところがそのころからあり、肉親的親近感に飢えていた。Nさんは、子供達にだけではなく、若い医師や看護ふにも親身に接してくれていた。伝え聞くところによると、なにやらわたしの事をずっと心配していたとのことだ。いったい何の事だろう。まだ墓前にも参ぜずにいる。しかも気がかりを残した今日このごろだ。
生きる死ぬる。。。この年になるとそれは万感の想いがある。生きるということは、努力がいることだ。私はそのことを50を越した今日までは、本当のところ知らなかったように思う。朝日が昇り、夜が来る。そしてまたまた朝がくる。ある患者さんたちのように、そうでは無くなってきたと自覚をしたところから別の人生が始まる。。。知らず知らずに齢を重ね、死を意識した生活がいつのまにか始まるわけだ。病苦でもあれば、それこそ。。齢を重ね、若さをうらやむことにより、それこそ。。。
ふと、目をあげる。空のいろ。木々の緑、アルファルトの色に、表面の荒れや冷たい感じ、子供たちの声に、、その全てが、いつもまにか、別の色や音声や感触を持つことを感じて身がすくむ思いだ。評論家達のごとく、やれ生と死は裏腹、などとは言えたものじゃない。それは元気な人が言うことだ。山の木々や闇のせまる夕陽のこもれ日、そしてせせらぎ。端麗な水ちゅろちゅろ流れるためにこその静寂(しじま)。そのしじまにふたたびチュロチュロとささやくことで静寂を際立たせている暗がりの川面。眺める目に映るそれらの景色。晩秋。おや、木漏れ日はすでに山に閉じ込められた。くらがりが支配する風景に脅える。いつかは消え去るのだ、という実感。。。
思えば、私を鍛えてくださった助教授以上の方々も多くが亡くなった。。そんな、Nさんであるのに、お香典をと思って郵便局に行くと何となんと!!10月1日から電信為替が使えないというではないか!つまりは、いつのまにか、弔電が打てなくなっているわけだ。急に遠方の知人がなくなっても、お花を送るか、お悔やみを言うだけになった。某○○キューピッドにとっては良いかもしれないが、ただでもバタバタしているご家族に多数の人間から電話がかかっては迷惑千万だろう。そう言えば、、と思いを馳せる。。。先日テレビで見た、郵便局の消えた山里のご老人は、如何ばかりなのだろうかと。孤独のうちに日々を過ごし、癒されるのは、郵便配達の人とのコミュニケーションや、消息を知らせる書簡そのものだったろうに。ただただ、自分の意思で、郵便局に出向き、書簡を受け取ることになる。受身ではあっても、「あいてから、便りがある」という自然なる受動こそが安らぎであったろうに。過疎化、高齢化。これらの当り前の我が日本の暮らしのことども。ここにあっては、ミンエイカは、大変困ることだ。あいてから、相手の意思で自分に便りがある、こと。こんな自然な、こころやさしい関係も無機質エコノミーが無残に壊す。愚かしいことだ。
そもそも、「公共」とは社会主義的なものだ。なんか、専門的にはあくまでも市場原理を中心に敷衍するのを資本資本主義、公共サービスなどもとりいれるのが修正資本主義とか社会資本主義とか言うらしい。そんなめんどくさい小理屈を言わずに、公共イコール社会だから社会主義でよいじゃないか。同時にむかしの共産的なイデオロギー思想もどうでもよい。社会を中心にすえるから社会主義だ。「公共主義」でもいい。それと、市場原理を中心にする資本主義の両方ともが必要だ。その両方には互いに譲らない強さが必要だ。けんかが必要だ。どっかの政党が、反対の政党と手を結んで、国家アメリカの為に法律を制定しようとする動きと同じだ。なんでもかでもひとつにすれば、運営は簡単だが、こころが腐る。手に手を携え利益を追求し、自然を破壊する。かかる複合体は、環境破壊や温暖化阻止をビジネスに取り入れて「我々はァ、我々の美しい地球をとりもどすため、日夜がんばっていますゥ!」的な活動をするようになった。この動きは、いってみれば「御都合主義」だな。公共主義は、最初から万人の平等を唱う。資本主義と基本的に別物だから、双方は相容れる必要などはない。日本が、戦後資本主義を民主主義といいかえるアメリカ的な都合よい理屈に馴染みすぎた結果、なんか、日本郵便株の発足のほうが、新しい社会の動きみたいな感じを持ってしまうのは困りものだ。公共主義で全てが動かせる訳ではないように、資本主義だけでもだめ。今の日本は、御都合主義をすて、基本は自由な市場活動をしながらもいままで捨て去ったいろんな考えを再考するべき時に来たようだ。いなかのお年寄の、そとからの「おくりもの」を取り上げるような、なくなった人を痛む気持ちを伝える仕事を平気で捨て去るようなそんな資本主義を民主主義的と感じるような世の中はどこか間違っているのだから。社会や公共があってこその経済活動だ。第一に「こころ」を捨て去った民主主義などあるわけがないじゃないか。市場原理イコール資本主義イコール民主主義みたいなヘンな心の持ち様を考え直そうよ。そいつぁ、単に「御都合主義」だ。もっと考えてみれば、どだい「なんとか主義」なぁんてのも、ばかげたものだと思う。要は、いつのまにか、完璧に不平等な社会なのに、皆のあたまはひとつになっている。こころがたくさんあるのに、思考がひとつになっている、と言う方が正しいか。
我々は、いろんなことを考えるからひとだし、ぶつかるから人だし、けど、みんな平和になりたいから社会なんだ、ってことだよね。自分と違うから他人(ひと)、それが集まるからこその社会。思いどおりにならないからこその社会。オモイドオリにならないから一つに、なんてヘン!ばらばらだからこそ「公共」だということを、いまこそ忘れないように生きたいものだ。そういった意味では、いつのまにか、我々の世界でも、マニュアルならぬガイドラインが蔓延(はびこ)っている。コイツなんてのも糞くらえ!かも。 ねえ.皆さん!(071210)