Back to Howawan's Homepage to index to Yahoo's Homepage

sentence2901/いじめと自殺 ......

inhalts

sentence2901@
○いじめの問題。この問題は実にいやになってくる。つくづく社会の問題だからだ。社会というモノの反応はニブイ。だから嫌になる。
陳腐なイジメの一例をあげてみる。私例である。学校での実例を挙げるのは故人に辛いからだ。腐った職場で短期に働いたことがある。あまりに病院として機能しておらず、改革にのりだした。職員会議を定期にしたのだが、ある日だれも集まらない。ようやく三々五々入室が始まったので、私は、椅子に座る。すわった途端、バランスを崩してしりもちをついた。見るとそのうちの何人かがニヤニヤしている。反射的に裏をのぞくと足の一本ボルトが抜けて、ない。緩んでいるのではなく、無いのである。食事につかっている部屋の椅子だから、大体人間同じ物を使うようになるものだ。その前日も使ったのだから、そんなはずはない。つまり、緩みならわかるがボルトがないのだから故意だ。しかも緩ませて、事故に見せかけようとはしていない、抜いてあるのだがら、はっきりこちらに意思をしめしている。故意なのである。
私は一匹狼的に生きているので、いろんな集団から村八分にされてきて、この手のことには慣れている。そういう事も承知と思われる某財団からの斡旋で就職した病院でもある。それにしても、病院は病院である。このいじめの低次元なこと。もう時効だからついでに暴露すれば、そこには薬剤の裏帳簿があり、レセプトに記入される薬剤と実際に投与される薬剤が違っていたようなのである。恐ろしいことである。老人病院だから当然月に1ー2人は臨終を迎える。全体の経過からは老衰でよいだろう。けれど、老衰といってもいろいろだ。気管に痰が詰まれば、全体の経過に関係なく、緊急蘇生が必要だ。看護師免許のない補助看さんがアンビューをおしてくれ、私が蘇生を行う。免許持ちはいるのだが、少し下がって見ているだけ。指示をしても何もできない。
これは姥捨て山なのである。こういうところに、免疫のない人間が入れば、自殺したくなっても不思議ではない。それは会社でも学校でも同じ状況が想定できないか。
さて、もし、だれかが自殺をすれば私例とちがって、人が死ぬわけだから究極の大問題だ。だからそれがいじめの結果であれば、誰がいじめたかが問題となる。なぜか?死んでしまっている本人にとってこその意味はないが、家族は怨みに思う。集団側にとっては、もう本人は、死んだんだから、いまさら残った人間になにが出来る。できるだけ穏便に。という意図がありはしないか。だって、自殺とは自ら命をたつことだもの、との短絡が透けてみえる。彼らにとって一番の問題は、「自分達に面倒な事がおこる」ことだからだ。たかが、一人の人間のために。ここで私例との共通点が明確になろうというものだ。
さて、もしもある人間の死が他殺と断定されれば、彼らに取っても大問題となる。殺した人間は法律でさばかれるからだ。つまりは、自殺なら、原因がなんであれ法的に裁かれないわけだからだんまりが一番。自殺に追いやるとか、事故で死ぬとか、遭遇したらだんまり一番。そうやって、当事者のなかで、「殺人」とはっきりうたわなければ動かぬ、という人間はすでに、いじめ側の集団に属している、と私は思う。
あるいじめをしたい人間がいて、教師、学校、教育委員会までが、あるいは、看護師長、経営者あるいは、課長、部長までがいじめる側の集団に属していると確信した時に、たぶん、確実に彼女は手を下す。しかしどうだ、これは明確に意思をもってなされ、かつ公表できない意思でもあるので、「悪意」とか「未必の故意」による殺人と考えられないか。
どうせ調査され、それが家族の私怨により、会社、職場、学校側はおなざりに頭を下げるだけならば、なにも変わらないいつもの日本の醜い姿だ。こういう「悪意」による殺人が社会的に認知されて法に定められ、実刑が組織にまで及ぶようにしなければなにもかわりはしない。
逆に、これから引いて私例の場合はどうだろう。私がもし自殺しなかったらどうだろう、私のように戦ったらどうだ。結局は、保健所にタレこまれ、解体されるかもしれない。自殺にしても、開きなおりにしても、それはある意味極端な反応行動の例だ。ほとんどの人間はいじめられないように、組織の一員になるだろう。つまり、通常の職員という人々、これは大多数の日本人であるが、一旦、誰かが犠牲になる状況が起これば、保身からいじめ側に自動的に取り込まれる状況が発生すると考えられる。え、中立だって?そんな立場は、いったんだれかが「踏み絵」をすれば、一挙に不可能になるしろものだ。この理屈を敷衍するとすなわち、いじめによる自殺に対して法律的に裁くという概念は、その大多数が特定の集団に帰属するような、普通の心的強さの普通の人間を裁くということでもある。言いかえれば、裁かれないようにするには、反逆か、少なくも中立の精神を強固にする自我の形成が不可欠ということで、個の発達がややもすると未熟な日本的精神構造になじむとも思えない。つまりは、いじめによる自殺は、日本的精神構造ときっても切れない関係にあると断言できる。アメリカの心理学者マズロー氏の、 とある図をここに載せておくことにする。おおいに参考になる昔からの図ではある。(061117)