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sent40-01602141100/正義と偽善?預言者はだれ?の巻 4 ......

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○異教と罪
キリスト教は、異教徒に対してどうなのだろう。聖書でのイエスは、基本的に、まずしく、罪を犯す人、異教徒などに教えを説いている。ルカ書にもある、100匹の羊を持っている人がいて、そのなかの1匹の羊がいなくなったらの喩え。99匹の羊は普通の人々、けれどたった1人の罪人が罪を悔い改めることこそが大切とのたとえだ。このたとえ話の前にも、身ぐるみはがれて、金も無くなり、泊まるところもない旅人。それをユダヤ教の律法学者(ウラマーと比較出来る)やパリサイ人(正統ユダヤ教者)たちが通り過ぎていくのに、ただ一人サマリア人(ユダヤ教の異端とされる人々)が彼を開放してやり、宿の主人に金まではらってあげるという良きサマリア人の話、これもルカ書の有名な一節だ。

 以上、イスラム教者とキリスト教者を比較しながら、両者とも平和を愛する人々だということを話してみた。たしかに、正義の執行が過激ではある。それも本来は、きちんとタガがかけられ、戦いは限局的である筈なのだ。両者共、偽善は最悪とされ、地獄の業火で焼かれ得るところも同様であった。むしろ、イスラム教の本質はムハンマドを手本にする生き方で、コーランはそのスンナを記す。この点において、現代までの西洋の行き過ぎた、つまりIch-Sager(私、私という者)、個性の尊重しすぎについて、強烈に反省を促していると私は思う。そのようなアイデンティティー主義は、全てのことはアッラーに帰するムスリムは、当惑するはずだ。日本人は、本質的に和を尊ぶ。アニミズムに近く、穏やかに仏教や神道のしきたりに従い、唯一神を奉じない無宗教的な態度がおおかた基本ではあるにしても、自分のアイデンティティーをただ守ることにのみ執着する生き方よりは、時の流れのままに生きる、人の為に生きる、逆に神のために生きて何が悪い、という態度や思考法の方が、「ねえ、見て!私の作ったものを見て、ちゃんと出来たでしょ! ホラ私を見て!」だったり、神頼みをしたい時でさえ、「あなたの人生はあなたのものだから、あなたのしたいことを自由にしなさい!」と突き放せるような個人の集まりである西洋の方々より、むしろ分かり易い気がしないか。唯一神のみに従い、自分の生き方を常に問うイスラムの人々。それは、なんでもアッラーの元に! と言う言い方や、複雑で細かい断食やハラール(食べてはいけないもの)などは確かに不可思議だけれど、そんなこんなの部分を除いても、Ich-Sager よりは、腑に落ちるところも多く、より理解しやすい気もするのだ。

 ちょっと国家アメリカに一言。2次世界大戦以降の「世界の警察官」。20世紀にかってになって、21世紀の初めごろ、かってに降りてしまった。勝手になって、勝手に降りた、という事実。それらの行動、経済や保障全ての行動の価値基準が、イッヒ(Ich)、つまり国益であるアメリカ国。その硬化した尺度が今問題になっている。あの大統領選の代理人を決める予備選の姿、討議の内容や主張の硬化した姿、茶番的でさえある。スーパーやネットで買える銃を不思議と思わないメンタリティーの人々(私は、それほど多いと思ってない。だって、フツーの人はフツーだから)、あのビンラディンに戦闘のノウハウを教えた人々。世界の軋轢、とくにイスラム世界との軋轢の基になっている自分たちの国の姿に微塵も気づいていると思えない。繰り返すが、フツーの人はほんとにフツーだから。アメリカでもね。ま、どんなに困ってもミサイルを発射する映像を誇らしく見せたがるどっかの国のテレビと同じことなんだろうと思う。とにかく「強さ」をアピールする国家アメリカ。それは借りの姿。フツーのアメリカ人はフツーの人だ。私はR-22を愛しているし、こんなヘリコプターを作れるフツーの元気なアメリカ人が大好き。テスラも大好き。でも国家アメリカは違う。偽善の匂いがする。

 それはさておき、あなたは、神の存在を信じるか? 信じるということ。信じるに至るのは、母の愛を理解するのにちょっと似ているとアクラムさんは言う。「それは成長するのです。お母さんがあなたに優しくする。そこであなたは5%信じます。あなたの成長に合わせて、お母さんは愛を示しつづけます。あなたにご飯を作ってくれる。物を教えてくれる。ほかにも色々示してくれます。そこで10%信じるようになる。あなたが気づくようになればなるほど、あなたは信じるようになります。」このダイナミックな信心のとらえ方は真理であろうと思うし、新鮮でさえある。
 もとに戻って、死というモノがテレビを通じてそこにある現在。多くの死が現実感を伴わない。3.11の悲しみ、世界の難民の悲しみ。難民化か、それとも死かの選択の悲しみ。アフリカとヨーロッパの間で、一番深刻な問題である難民。そのわずかがやがて移民となり、年月を経て同胞、家族の死が訪れる。死の悲しみに服する移民にとって、「死が現実感を伴わない」ということは、二重の意味でそうである。「日常生活の中に愛する者がいない状態になると、ますぞの人は幽霊のような存在となる。帰郷したり電話をしたりするとまた生き返るが、でも一時的な生還にすぎない。その後、死の知らせを受けたとき、遠隔の地で悲しむ者は、愛する対象を改めて心のなかに召喚し、そして改めて、失う。見つけては失い、失っては見つけるという痛みを伴うゲームを続けながら、想像力の歯車が摩滅してゆく。」これは、パワーさんの本の中でももっとも深淵で美しい訳文の一つだ。この微妙な繊細な訳文が、英語から生まれた。原文を見たいと思うが、これなら、われらが西洋も捨てたものではないね。とにかくも、お互い手を結び、手でつながり、絆を保ち、平和でありたいと心の底から思う年の初めである。 (0160212)


●文献
1.コーランには本当は何が書かれていたか?:カーラ・パワー、秋山淑子訳、初版、文芸春秋社、東京、2015
2.イエス伝:若松英輔、初版、中央公論社、東京、2015