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sent40-01602141058/正義と偽善?預言者はだれ?の巻 3 ......

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○正義とは。
 さて、正義となると定義が立場により異なってくる。大前提として、正義のない平和は成り立たない。が、この正義は、立場により解釈が違う。実際、メディアの報道通り、イスラム教でのウラマー(イスラム法学者)によるファトワー(法学的意見。拘束力はない)では、ジハード(聖戦)がかなり先鋭化されているものもあるようだ。宗教(人が作った宗派と言うか、教義というか)が正義に触れると話は違ってくる。我々普通の人間からすれば、普遍的に、正義と平和とは、無条件に共存可能するように思う。ところが、これが落とし穴。宗教に置ける正義は、つねに危険を孕んでいる。十字軍などもそうだ。これがすべての始まりというムスリムもいるようだ。ムスリムはと言うと、コーラン。そのコーラン、直接読んだことはないので大きなことは言えないが、コーランは、ムハンマドの行い(スンナ)を記している、と言う。ムハンマドは戦ったのか? 彼自身も戦いには出た。様々な「戦い」は、彼ら自身の正義を大義として行われる。ナドウィー師のアクラムさんの言うには、「戦うだけでは、平和は訪れない」とムハンマドは教えていると繰り返す。ある場所に、イスラムの共同体が出来、神に民が向き合い、祈りを捧げるための礼拝、そして説教。万一これらを妨げるものがいる時に限って反撃は許される、とある。これが本来のジハードであろう。イスラムに於ける「武力」は、かなり限局された行為である筈で、大変心強い。

○偽善と業火
 ところが、正義を神ではなく、人が、それも声高に叫ぶとき、その者は、偽善者だったりする。聖書の有名な一節から。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟に向かって、兄弟よ、あなたの目にあるちりをとらせてください、と言えようか。偽善者よ。」コーランでも、偽善者-悪口をたたき、他を中傷するもの-は、火に焼かれるようだ。真の信仰イーマーンは、個人として神と話すこと。これを国家も権力も奪えない、逆に国家がイスラム教を押し付ける時に、偽善が人にはいりこむ、とアクラム氏は言う。偽善者が火で焼かれる事については、ルカの福音書にもある。イエスの言葉。「私は火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。(中略)あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。(中略)偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。」と。偽善をおこなうことこそ、もっとも神に遠く、正義から遠い行いであることは、両者が同じような表現を取っている。地獄の火、それは、たとえなどではなく、真の火、熱く、絶え間ない苦痛をあたえ、止まることを知らない、火で焼かれることそのものであると若松氏も言う。

○神のコトバは誰のもの?
 一人一人の人間に対して神はコトバを賜る。人は、祈りをもって神の下に暮らす、そういう平和なる人々。たとえ迫害されても祈る人々。そのように、神と近い自分を感じ、信じて暮らす事。このあたりの表現は、キリスト教もイスラム教も同じ理解で良いと思う。印象として、イスラム教と人々は、キリスト教より、一人一人と神がより近いように思える。個人々々が直接アッラーと向き合い、自らの行いを内省しつつ深化してゆくところが、より強い信仰を感じさせるのだ。
 キリスト教は、同じ中東で生まれながら、西洋で西洋的に、つまり国家や法律が明文化かつ分化整理され、思想の違いやアイデンティティーと言った個のカラーを重んずる人々の共同体のなかで広がってしまった。神の直々のコトバではなくて、宗教が神学として学問となり、学校で教えられ、専門職として生計も成り立つような人から、つまり、代理者にコトバを解釈して、信仰する形態をとらざるを得なかった。両者の違いの根本的は一つがこれだと思う。それに、私は、若い頃から、キリストは人であるのに、神とキリストが同一のように語られることには違和感があったが、これも、両者は、根本的に違う気がする。ムハンマドは、預言者である。そしてエリアやモーセやイエスなど、預言者の系図では、明らかに一番若く、新しい預言者である。もちろん、イスラム教もムハンマドを預言者とし、その代理としてのカリフ、そしてその扱いで分かれてゆくシーア派とスンナ派など教義の違いもあれば、祈りの場としての教会ならぬモスクもあり、神学校ならぬ、マドラサと呼ばれる学校もあるが、単に名前を分類し、比較して類似性を論じても意味はなくて、基本的に、イスラム教は、祈りは、より個人的で、神の存在が近い。また、一般に信じられるより、他の宗教への許容度もある。異教の民も、すなわち啓典の民(キリスト教、ユダヤ教、サービア教)も、イスラムの制約に従えば、異教徒として居住をゆるされた。
(つづく)