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sent40-01602141056/正義と偽善?預言者はだれ?の巻 2 ......

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○平和な生活
 メディアがよく使う聖戦、ジハード。ジハード、ジハードというが、イスラム教は、本来的に、それほど鋭い、たぎるような教えなのか、それとも、彼らに印象付けられただけなのか。アメリカ大統領選挙の前哨戦を思う。私は、今回の読書を通じてというか、以前からの信念と言うか、一部のイスラム教徒の姿が、共和党のトランプさんのような人を生むのであり、本来は、平和な宗教や人々ではないか言う立場は変わらない。トランプ氏の主張は、じゃあ間違っているか? それもどうだろう。建前と本音と言う分け方だと、あれは本音だろうし、一般市民の心の脆さというか不安をうまくついている。いくら理性で判断できても、私もまた、隣に、なんの前触れもなく、ムスリムが引っ越して来たら緊張する。テレビや報道の成せる技かも。けれど、私は、仕事を通して、別の事実も持っている。少し前に、パキスタンの人達が外来に来てたが、ムスリムだった。子どもはめちゃ可愛いし、お母さんもいい人で、すぐフツーの患者さんと医者の関係になれたと思った。一般的なアメリカ人から対側のムスリムまで、結局フツーの人は本当にフツーだ。これも事実。これらから、トランプ氏の話は、確かに本音だろうが、同時にひどい誤解を生むこともまた事実。そういった場合、唯一の解決法は、まずはフツーのお付き合い、と言うことに尽きるのでは。根底にあるのは、フツーの生活を送る人間同士の、自然に生まれる相互の信頼をまずまず信じよう、という感情だと思う。
 若い頃。。ドイツに居て、カトリック教会に何度も足を運んだからだろうが、聖書(新約)は、なんどか読んできた。私は、医者なので御同業のルカ書を中心に読んだが、聖書は他3人の使徒の福音書や使徒行伝も読まないと、エピソードや教えの記述が、書いた人たちの年代のずれもあり、少しずつ違うので読み方にはコツがいる。例えば「平和」に関しての記述などは、マタイの福音書に、「平和を実現する人は幸いである。」とあるが、時代がくだったルカ書には、たしかなかったような、という具合の違いはある。とは言え、キリスト教やイスラムなど普遍的な宗教は、人々の平和を求めているというのは確信だけじゃない。上記の本を読んでから、イスラム教もまたそうだったのだ、と言う確信を得たことは正直嬉しかった。
 旧約聖書をドイツ語で読んだことを思い出す。ドイツから帰ったばかりだったので、かなり読めたと思うけれど、内容は、そもそもが難解。だから、あまり内容自体に記憶はないが、上にあげたようなイスラム教、ユダヤ教、そしてキリスト教との相似点についてが、不思議と記憶に残りました。日本人だからかな。預言者の一人がムハンマドであるだろうこと、コーランでも神は唯一で、しかも預言者の一人が、イエスであることなど。

○平和のための戦闘って?
 平和を愛さない宗教などはないと思うし、平和を望まないフツーの人はいない。神を戴き、迷える人々(大多数の人々)に預言者が神の言葉(若松は「コトバ」と言う)を伝えるはずの宗教。その預言者や彼らの唯一神が平和を求めない筈がないという確信。ここに帰結する。キリスト教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教、そしてイスラム教もしかり。おおよそ、この本のファトワー(法学的意見。拘束力はない)を出すアクラム師も、ムハンマドは、戦闘による和平などはありえないと説いたと言っている。つまり、イスラムも本質はそうだ、という確信。そう、戦いは、なにも生まない。

○ゆるし
 ルカ書にある弟子に語った教え。「あなた方は敵を愛し、人によくしてやり、(中略)あなた方の父なる神が慈悲深いように、あなた方も慈悲深い者となれ。人をさばくな、そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められる事がないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」とある。
また、イエスが十字架につけられようとする前に、弟子とピラトの部下との間で諍いがあり、この時、相手の耳を切り落とした弟子に、キリストは、それ以上はしないように言い、敵の兵士の耳を癒される。キリストは、癒しを多々行っている。
ムハンマドも、教友(使徒のようなものだろうか)の一人が、ある敵を殺そうとした、瞬間にその敵が、シャハーダ(信仰告白)を口にした時、それは、助かるための嘘ととったが、それに対して、ムハンマドは、その教友に、「心を裂いて中を見たのか?」と問い詰めたとある。推測は間違いを生む。この時、預言者ムハンマドは、推測することを拒絶したのである。それは神のみぞ知りうる。人が人を裁き、罪に定めることは間違いではないのか。(つづく)