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sent40-01602141053/正義と偽善?預言者はだれ?の巻 1 ......

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 それにしてもまー次から次から、自爆テロや悲しい空爆犠牲、普通の生活の中で起こる、事件事故、虐待、軽井沢での事故の訃報、台湾の地震など、心に突き刺さる事ばかりの正月ですね。。なにかと、イライラしませんか。そのなかでも世界大戦などと違って、チリも積もる的な人の死の結果としての甚大さ。毎日ですよ、毎日。少しずつ少しずつ減っていく。子どももおとなも。おかしくないですか。ジカ熱。エボラが静まったばかりで。。人とともに拡散の意思をしめす、他生物の脅威。けれども、心の深層にとどいている一番のイライラの原因は、やはり自爆テロでしょう。避けては通れない骨肉の争いが家庭に入り込む。

 今回のテーマは、聖書とコーラン。扱ったことのないテーマで少し苦労しました。政治と宗教には触れない生活を目指して折りますが、昨今はそうもいきません。しかも、いつものノリでは書けないし。種本は2冊です。下にあげておきました。さてコーラン、これを我々外の世界の人間が直接読み込むのは難しい。探すと、ちょうど、アメリカの女性ジャーナリスト、カーラパワーさん(Carla Power、原著も2015年)のものが電子本でありました。
以下、キーワードは、「平和」や「正義」と言うことで。


 まず、大切な両者の違い。イスラム教においては、イエスは預言者のひとりで、最後の預言者がムハメドであるようだが、逆にキリスト教では、ムハメドを預言者と認めていない。しかし、私のように無宗教な人間からみると、お互いに認め合っているように見えてしまう。そこでキリスト教とイスラム教の違いではなく、共通点というところにスポットを当てる方向から考えてみました。
私には「天使」という存在がまず、両者の共通点として浮かんだ。天使はユダヤ教、イスラム教、キリスト教における神の使いである。また、方舟のノアは旧約聖書(ユダヤ教経典)にでて来るが、イスラム教でも預言者の一人である。旧約聖書(ユダヤ教経典)では預言者モーセの遺体を運ぶ天使ガブリエル。イスラム教では、ムハンマドに度々現れては、神の意思を伝えるが、キリスト教でも、マリアに現れ、イエスの受胎を伝える受胎告知を行うのである。では、そのガブリエルが、コーラン(イスラム教経典)で、マリアに告げる言葉を文献から転写してみる。これは発見だった。「コーランの一節にも、『かしこくも、アッラー様の嬉しいおつげじゃ、(お前は)神から発する御言葉を(産みまつるであろう)。その名はメシア。マルヤム(マリア)の子イーサー(イエス)。その御方は現世にても来世にても高きほまれを受け、神のお傍近き座につかれるであろう。揺籃の中にあっても、また成人してからも人々に語りかけ、義しき人となられるであろう。』」とある。どうだろう。私には目からウロコ。聖書ではなく、コーランからの引用である。
 両者、両経典の相似性だけでなく、人の作った「宗教」、というものにこだわらない聖書研究などでは、驚くことも多い。例えば、キリスト教の敬虔な司祭が、研究者としてイスラム神秘主義の源流となるハッラージュ(イスラム神秘主義者)を現代に蘇らせたり、20世紀の著名なヒンドゥー教のガンジーが、イエスを敬愛して、福音書を読んで目覚めたことが、インドの独立運動の前だったようだし、その前になると、ヴィヴェーカーナンダという19世紀のインドの思想家が、キリスト教の人々にむかってキリストに帰れといったりしている。これらの事を「イエス伝」で紹介してくれた文献2の著者の若松自身も、イエスの使徒達が自分のアイデンティティーをぶつけ合っているとき、つまりだれが一番偉いかなど言い争っている時に、幼児を抱き、彼らの中央に立ち、そのことを諭すイエス。その場面をこころに描いて、仏教の曼荼羅絵との相似に触れている。このように、ただただ神や預言者本人の本質にせまりたい追求者にとっては、いわゆる「宗教」とは違うイエス像、ムハンマド像であるようだし、納得できる。
 さて、本題に入る。平和、正義、そしてその対語としての偽善、そして地獄の業火についてである。(つづく)