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sent39-01501082305/不条理とアナロジー2 ......

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sent39-01501082305@ 話変えて、天変地異の方もものすごい。自分も小さい経験だけれど、去年、近くのゲリラ雷雨を見に行って、サファリのエンジンをオシャカにしてしまった。スーパー台風と言うのもすごい。一昨年のフィリピンの台風は、2004年のスマトラ沖地震による津波の被害、2011年の東北の大震災にならぶ甚大災害だと思った。なぜあれ程になってしまうのか。今どきの台風とは、誠に恐ろしいものだ。更に、相も変わらない、被災した人たちのテント暮らしや仮設住宅ぐらし。天候にやたら左右される捜索活動。いつまでも、捜索には、一人一人の「人手」と言う個人の力にまかされる。 天候に翻弄された故の災害と、二次災害を恐れる、遅きに失する捜索。この繰り返しにこそ問題がある。その固定観念がすでに問題かと思うのだ。我々は、いま21世紀と言われる、「近未来の世界」にすんでいるのではないのか。実際、iPSだのLEDだのリニア新幹線などなどの話題も豊富じゃないのか。であれば、捜索活動も、天候に左右されないような捜索手法が確立されてしかるべきだと思うのだ。その発明は、だれがする。そういう根幹に一切触れず、ヒトの進歩などあるのだろうか。私には、ただただ、「犠牲を出しながらも、救助しているのです」と言いたいが為の一種茶番のように見えてしまうのは不謹慎でしょうか。それは、なぜか先の航空機爆破なんかとイメージが重なるのですが、私がおかしいのだろうか。。先も書いたように、一人一人の人手は、痛く傷つき、彼ら自身が助けられない、あるいは、無残な犠牲を目にして、自殺者がでるというのに、どこかおかしくないか。。。三陸を回りながらそう考える自分は、おかしいのでしょうか。
 戦争。銃があるから人を殺す。自分を守るためと言って人を殺す。それは、素手でも、やろうとすれば人を殺せるのに、効率よく相手を抹殺するために銃器や爆弾を使用して、大義として国を守ると宣伝するのというのとどこが違うのだろうか。人はやがて、短い一生を終える。それは、蝉と同じだ。うつせみ。一部の学者がまことしやかに話し、かつ多くの群衆が信じる如く、本当に、すべての人が寿命を全うしたら、地球上はたちまち、60億の何倍にもなって食料がなくなるのだろうか。本当に自然の選択圧が働かないのだろうか。元に染色体でy遺伝子(男性化遺伝子)は、矮小化しているじゃないか。「すべての人が寿命を全うしたら、、」説は、わたしには、1番大切な努力を放棄し、都合良く、一部の選民にしか、生きる権利を与えない、的な、ある人々の戯言にしか思えないと最近本気思うのはボケのはじまりなんだろうか。その説、単なる猜疑や扇動にしか思えなくなっているのは間違いなんだろうか。真摯に、寿命がつきるまで、生きようとする本能をやめないでも良い社会や技術を作れば良い。そうやって努力をして生きても、そのうち、自然の力が、我々ヒトを一定の数に減らしてくれるから、それを待つ。こういう視点が、国家や政治の世界では忘れ去られていないか。その不自然な営みのなかに、もう一度言うけど、人の悪意、扇動、排他、私利私欲といったものが付け入るスキがある気がする。だからこそ、多くの人が、素直に、インド洋やウクライナの飛行機の不自然な喪失が、事の成り行きで致し方がない、とは思えない点で一致するのではないのか。
 マァ、そろそろ先が見えて来た身としては、このあたりの事例に対して、自分の人生とからめて、人一人でもできる範囲の、「生きることへの総括」をしていければと思う。長く続けてきた個人的doctorheli(すみません、ドクターヘリは公的なものなんで使えません)。これが、ときおり訓練を怠けたくもなるぐらい、周囲の人の助けがえられない。いつまでたっても、評価としては、一人のおバカな医者の道楽と言うわけだ。4年前に、その有用性が発揮され、そのこともちゃんと学会で発言しているのに。人のココロは変わらない。どこか、私利私欲みないなものがまとわりついて、真実が隠される。いいことも悪いことも。だから、有事への備えをする態度を、各自のレベルで持ち続けるしかないような気がする。そういう私は、「草」だと、以前どこかで書いた。目先の利益を追い、前面に、でたがる人々にはかなわないが、そこは、「草」で良い気がする。「一人で何ができる」、という声と「結局なにもしないじゃないか」という声が同時に聞こえてきそうだが、それでも、ひとりでなにもしない人よりはマシな気がする。かれらのほとんどが、いまそんなことをしなくても、人は平等。自分の身にふりかかるだろうから、その時は、と言う。それも人生ではあると思うから何もいわないが。。 と言っといて、「義をみせせざるは勇無きなり」って知らねのかい、エェーオイ!とか聞こえないように叫んでいる自分がいるわけで。。。おっと、年頭にあたっては、ちょい暗いかな。世界が、暗いくらいブラックホールに飲み込まつつあるから、そうならない大事な1年となるだろうと思いから、書いてみたがたしかにちょいと暗いかも。では。。。
 これをアプリなんかのインストール中のなにも出来ない時間で書いた後、ある会で、このあたりでは有名な人助け人の方と話す機会があった。この人、私の弟と同じ年の人で面白い経歴をもっているようだ。けれど、お酒もあってか、いきなり、「。。。私のアナロジーは理解されないようで。。」とか、話し出された。もちろん、それなりの文脈はあったが、これは久々面白い、正直そう思った。 「アナロジー」(analogy)という言葉。コンピュータの世界では、別のosに移植するプログラム何かをつくるとき、類推するだけではなくて、自分の使い慣れた言語を相手方の言語に移すとき、使い慣れた術語と相手の術後を置き換えながらたとえ話をつくって理解しようとする、なんて使い方をするが、その単語を聞いた途端に、高校の時の、学生紛争の一幕やら、安田講堂の放水なんかの映像を思い出したのである。そういえばあのころ、やたらそういう、カタカナ言葉や「ダンコー」、「不条理」、「実存」なんて意味不明の言葉が流行ったからだ。で、その人が自分のアナロジーが。。。と話されたとたんに、私もいきなり、「それはあなた、analogyではなくて、アルゴリズム(algorithm;アナロジー的にコンピュータの世界で言えば、プログラムするときに、検索する部分なんて、いちいち面倒くさくて覚えてないから、一定の数式として作ってあるのを利用するとか、そういう数式みたいなもの。最近世界を騒がせたビットコインなんてものもそうだね) ですね」、なんて言っちゃったワケで。その直後に、その人が東大で数学やったとか言うんだなこれが。プププ、どうしよう! プロにあんなこと言っちゃったよ、と思った。マ、受動飲酒で酔っ払ったって事で、許してもらおう。すみませんでした。
 けれど皆さん、今年こそは、世界のありよう放射能もテロも戦争も事件事故もエボラも、たとえ話なんか必要としない、まっすぐ、真実一路、the fact, 「真実」につきあたりたいものですね。ホントに。
 そういえば、その後帰宅して、うちの奥さんに、そのことを伝えたら、また口が滑った。「マー、頭の良い人と話す時は、理解してもらうのに、必要のないたとえ話なんか持ち出さなくてもいいから、楽だねー。楽しかった」、と言ってしまったワケで。。しまったことですたわい。ま、わかったような顔しなかったから、いいか。。久々そういう楽しいこともあった正月でございましたわい。皆さんはどうでしたでしょうか? (0150106)