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sent37-01308131645/松島レポート2(1308) ......

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○2013.2-5(つづき)
しかし、海岸通りの人々は、他地域に避難生活を送り、人はいないだろうから、需要も多くはないかもしれないが、南相馬の個人開業の先生のブログなどみていると、そんなことは決してないと思った。大腸癌をおしての診療だった。会いにいった時は、すでにお骨になっておられた。
 つぎが、仙台空港周辺。こちらの方がむしろ南相馬にも近いということが判る。常磐線が完全復旧してないし、県道なども通行禁止区域が挟まるなどで、交通アクセスが悪いことを考えれば、こちらの方が被災地に近いことになる。さらに南のみならず、北は、石巻、女川ぐらいまでが甚大災害地域として射程にもはいる。宮城医師会に行って、求職の登録し、担当の先生にもコンタクトをとったが、そこは広島県のふるさとドクターバンクのように、参加はすぐでき、出来合の求人情報はすぐくれもしたが、ほとんど震災とは関係がない求人だった。もともと仙台のお膝元とはいえ、無医村に近いところが多い場所のようだ。東京や関西の人口の多い町の連なりになれている人間にとっては、札幌周辺、仙台周辺の数キロ走れば過疎の村、というような趣には、どうしても違和感を覚えるが事実むかしから医師の居ないところには居ない、ということがわかっただけだった。知人の医師にもあったが、現地の診療については、なんの進展も見ないで時がすぎる。要は、テレビに取り上げられたような、交通の便がわるく、医療機関の少ない、本吉から気仙沼あたりの求人しかなかったが、こういうところは、やっと医療体制が整ったところで、みんな持っていかれたといった様相で、再度の求人が困難なアクセスの悪いところばかりとなる。そういうところでは、震災後特に、非常勤の口はすくなく、しかもボランティア団体、PC 統合学会などの「大手」が入っていて、文字どうり、アリの這いいるスキ間もないし、しかも、ボランティアを前面にニオワせての買い?、と言ったら言い過ぎか、給金は安すぎて、遠すぎるのに、交通費なぞだせない、といった感じだった。簡単に言えば、交通アクセスの問題がクリアできなかったと言うのが無難だろうが、そこにこのあたりの一番の問題が存在する気がした。道路以外にも交通手段はある時代なのに。
 同時に動いてもらった医師の斡旋特定業者N氏でさえも求職の洗い出しや交渉は困難だったが、諦めず週一で南相馬や名取などみてまわった結果、被災地の内、仙台空港から南北60km圏内ではないと、通勤が不可能と言う結論に達した。しかも常磐線が完全復旧してない現状では、県道なども通行禁止区域がはさまるなどで、自動車や電車でのアクセスが悪いことを考えれば、仙台空港を円の中心にするのが実利である。北は、石巻、女川ぐらいまでが射程内と考え絞り込んだ。また、被災者を初めから見ることは、すぎには現実不可能であり、まずどこでも現地に近いクリニックに入り、独立採算しながら地勢を含めて、被害実態をつぶさに見て回る2段階法に切り替えたところで、N氏が、松島を考えた。なぜなら、松島は、外界と東松島市側からのびている島嶼に囲まれた地形で、被害も浸水のみにとどまっているところが多く、しかも経済力もあるためか、見かけはほとんど、昔のすがたにもどれた地域だったからから可能性があると判断したと思う。私も直ぐに「なるほど!」と思った。さすがにプロである。そこでは、人々はの暮らしもそれほどちがっていないようす。彼から一軒みつかったと連絡があった。こういう不思議な求職をうめる余力が残っているから雇える、という簡単な図式。ただし、そこで診るのは、通常の患者さんなので、被災しているわけではないが、少なくとも取材はできる。
 当地の河北新報にも記事が。「前略。。。地図を見れば分かりますが、今回の津波はリアス式の三陸海岸だけでなく、仙台港から名取や岩沼、福島県の相馬市や南相馬市など、九十九里浜よりもはるかに広い平野部の沿岸にも押し寄せています。この辺りで十メートル以上の津波など、過去の歴史にもありません。宮城県の常識では過去の経験から、塩釜以北は津波に注意というのは当たり前。でも多賀城、仙台、名取、岩沼辺りであの規模は想像できない。それから考えても、松島は構造的に津波がこなかったのではなく、来たけど防げたと考えるべきです。松島町の隣の東松島市は壊滅的です。しかし松島は死者は一名で済んでいる。西隣の多賀城市は町の三割を津波でやられた。やはりそれは湾内に居住者がいる程度のそこそこ大きな島(浦戸諸島)があり、他にもある無数の島々がたまたま津波を軽減してくれたのだと考えるべき。。後略(途中も短縮している)とある。日本三景松島の地勢は、風光明媚のみならず、実利的であった訳だ。これも神々の御利益かもしれない。
○2013.6からついに、松島町の中山クリニック(中心が腎透析の内科、小児科クリニック)に月曜のみ飛行機で診療に通うことになった。院長ご夫婦と職員各位の度量ある御理解に感服し、現在に至る。以後は、その翌日すこしずつ、聞き回ったことのまとめだ。考えてみれば、面接の日、こちらの目的は、単に真情の吐露で、当然のことであったが、相手は、そうはとらない人の方がほとんどなわけだから、院長先生ご夫婦の対応は、奇跡的と言っても良いと思う。性善論を信じる医者は患者さんから信頼される、という事のようだ。
○01300625 まずは、東松島市防災課長さんから、取材を始めた。取材の論点は、逆説的になぜ松島町一帯だけが、ピンポイントで被害が極端に少なかったか?から導かれる理由が、甚大被害の理由と排他的と仮定した上での調査が始まった。

        
  1. 松島の島々が、津波から松島町一帯だけを守ったこと     
  2. 松島町一帯がピンポイントで地盤が強かった為か、松島町一帯だけ 地盤沈下量が極端に小さく、津波がおさまった後、すぐに水が引いたこと     
  3. 海岸からすぐに急勾配となる地形の為、短時間で行くことが出来る十分な標高の指定避難エリアが存在したこと
 などのようだ。それに対して、課長の暮らす、東松島市の平坦部のそれは、押し寄せる波より、えぐり取られる、建造物がくずれる。いわゆる「ひきなみ」の怖さと破壊力が強かったという事だという。災害復興地図のオレンジ部分の広さを見れば判る。
○0130730 今日は地元松島町、まず交番。奥松島のこと、気仙沼などの甚大地域との差をやはり問うた。
  1. なぜ 松島の被害は限定的だったか。
  2. 被災者は、後始末に余裕が出来ると、他地区の非被災地に出向くのか。
河北新報の記事のいずれかだったと思うが、人的被害つまり、町民で亡くなった方 21人 (町内で 3人【直接死2人・関連死1人】 町外で18人【直接死14人・関連死4人】)とあった。
松島でも被害は、確かにあったのだ。桂島(外洋に接する島)などは甚大な被害あり、外海からの津波は、山をこえ、松島湾側の小学校を飲み込んでいる。松島海岸の瑞巌寺は山門まで波が押し寄せたが、引いていったという。仙台空港にも捜索で出張ったS巡査部長さんは、当時、名取駐在で、復興支援地図をみながら当時を振り返る。そういった場所では、あまり近くでは診療できないのではないか。もちろん被災者の精神ケアの意義は大きい。今後もし起これば、消防も警察も地区との協定はあるので要請に対応するのみ。 民間の医療機関に対しての希望は、と問うと、普段から、他地区との相互幇助のネットワークがあると良いとの事だ。又、もうひとりのお巡りさんの話がさらに興味深い。この方は、心臓に持病があり、震災後に手術も受けたようす。当時は、自分自身、非常対応などに対応出来るかとても心配だったし、薬の心配もしたが、防衛医大の医師がきてくれて助かった。一般人でも関西大地震の地域の高校生など親身になってくれて、大変感謝した。なぜ孤独死がすくないのですか、と言う問いについては、ひごろからの「地区の絆」の大切さを話された。
 次が松島町役場の防災担当のSさん、地震、津波の際、直ぐに感じたのは、「にげるよゆうなどがない」ことだった。。通信がとだえ、 防災無線しかない状態が続き、15000人もこの人口の町で、給水しようにも 給水タンクがない状態は無力感もあったが、みずの備蓄を住人に してもらうようにした。さらにどこにもいけない、苦痛、閉塞感。やっと一息ついたのが7月、8月で4月が経過。 ボランティアの人々がまわって来て肩のマッサージをしてくれたときには、自分たちにも心のケアの重要と考えた。気がはっているうちは良いがかならず疲れる。 ヘルスの講習だけではたらない住民だけではない心のケアの重要性。あと、 他地区との連携の体制は必要。 ニセ医者は、心配でしたか、という突飛な問いだが、無免許医に対する不安はやはりあったと応えられた。だから地元の先生とのつながりをもてれば良いと思うとのこと。今、最も大切と思うのは、甚大な災害が、いつおこるかわからないなかで、平時での、 備えをどうやってするか。特に心構の伝承が大切で、有事にすぐに活動できるためには、日々考えたことを後輩や今後の人々に伝える方法を探っているとのことだった。 この日最後は、地区の消防。消防監と消防課長さん。当時は、利府(内陸)での活動だった。各ブロック(塩釜、黒川、石巻)間調整は、すべて消防本部を通じてだが防災無線などでの連絡も速かったので、迅速に対応できた。確かに、宮古でも、消防の動きは速かったと記憶する。こまることはやはり、 連絡手段が限られることで、当時もインターネットは、期待したのにつかえなかった。また透析の患者さんのことは一番心配な日々だったとの事だ。 4日も電気がストップしていたことも大きい。
この日の聞き取りで心に残ったのは、助ける側の心のケアの大切さを異口同音に訴えられたことだ。