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sent37-01308131414/松島レポート1(1308)) ......

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こんにちは、皆さん。夏もまっさかり、お元気でしょうか。6月から、松島で週一回の診療を始めることが出来ました。ただ、あまりに忙しいので、この「ちょっと一言」もしばらくお休みしました。ごめんなさい。その言い訳も兼ねて、これまでの自分の歩みを述べてみたいと思います。少し固いし、まだ十分に文章化してないのですが、とりあえず、聞いてください。
松島レポート
すべては、東日本大震災から始まったわけで。。。 緊急報告東日本大震災に報告したことをかい摘んで、時系列でまとめます。
○2011.4.6
 北上の東北緑生の高橋氏の個人ヘリポートから燃料をもらいうけ、彼のガイドで、田老の海岸の岬にあるホテルの場外離着陸場に着陸し、案内を買って出てくださった附田氏の軽自動車で仮設診療所にむかい、孤軍奮闘していた若い黒田医師に会い、薬品を届け、援助を申し出ると、田老の児童館に行き、様子を観察、アセスメントをしろとの事。行ってみると、全児童49名で、病児としては、副鼻腔炎5才男子1名。喘息様気管支炎3才女児1名以外異常なしだった。
で、アセスメントとしては、

  1. 家族が流された児童あるが表面上睡眠中の異常行動はなく、保育士のはなしからもいみでの集団と変化はないとのこと。従って静かに見守りながら個別事例をケアする必要性。話す年齢になる迄時間がかかる。
  2. 様々な環境に分離された児童を一つにするイベント(運動会、簡単な遠足など)を行なう。
  3. 田老児童館側の山根館長さんと話した結果、関係機関が横断的連絡をとり、こどもの集団保育小学校の早期立ち上げを急ぐのが、こどもにとっても避難所に残る家族にとっても良いと言う考えは正しいと思われた。

○2011.4.7
児童館で、4歳の女児の母から、余震ごとにふるえて抱きつくこどもの相談を受けた。山根館長さんが、近くの保育所などの心配をするので、視察を買って出た。午後に到達。津軽石保育所は閉鎖中で様子不明。 重茂地区を見て回ったが凄まじいのひとこと。この地区の千鶏(ちけい)保育所はあとかたもなかった。母1人子供3人の家族が流され、こどもは数人流されたようだと、そこに居合わせた、地区のこどもをもつ母より聞いた。
 その夜に、ホテルで強い余震に出会う。突き上げるような激しい揺れだった。40kmの深さで、最強が震度6。マグニチュード7.2だという事。その直後一瞬の間を置いて東北地方全般に近い停電。これは実に1週間に及んだ地区もあった。
○ 2011.4.8 そんななか、苫小牧にむけて出発。途中燃料が底をつきそうになる。高速の岩木山で、1時間近くまって10lLだけの補給。なんとか高速はでられたが、三沢付近でアウト寸前。三沢空港が近く助かる(空港は必ず自家発電がある)。駐車場に車とめて、ルートインにタクシーで避難。休んでいる間に復旧。まさに被災した。雨が降っているので、うすでのフード付きブルゾンを使用。韓国では、降雨による休校や野球の中止があったようだ。
 以上短い間だが、生涯忘れられない日々となった。
○0110622 東山紀之の踊れドクター(2010.7-9)の影響もあったので、半年前の12月、飛び込み電話で、広大は、田妻教授率いる総合診療科で許可をもらっていた、病院総合診療の研修(2011.4.11-6.20)を受けて無事終わる。終了後、自動車で田老児童館を訪れたあと、宮古市保健所柳原氏に面会をし、その後の協力を申し出てみたが、非常に迷惑顔でとりつくシマなし。ニセ医者騒動の影響もあったかも知れないとは思うが悲しいことだった。
○この時点で、どう考えたかだが、
  1. 基本的に、人命が損なわれるようは事態では、医師に責任があると思っていた。介護保健もこの際、老人のみならず特殊な健康状態の子供にも、充実して生活する時間を保証する意味で、制度の縦割りの垣根を越えて、連携が必要と考えた。
  2. ヘリコプターの有用性を強く認識、確認した。特に今回のようにリアス式海岸で、近くて遠い陸路に対しての有用性は火を見るより明らかであった。
  3. 復興か復旧かの選択。この時点でのアセスメントとしては、
    1. 観光やモニュメント、記憶やゴミの廃棄地区などをもうける。
    2. 要塞地区をつくる。
    3. 外郭地区ー安いが金銭的にも保証もない昔ながらの漁をする人々の地区。景色がよい。ただし、有事のために地下シェルター (避難所)を確保すること。

日本を守ることはつまり海、海岸を守ることだと思った。
○方安庵にも副産物というか良かった。職員の有給(お金は、日本政策金融公庫からかりたが)をもうけたことで、彼らも日常から離れ、個人のパフォーマンスに応じた勉強をしてもらった。再開時には、意外なパワーをつける期待も当然あった。
○2012.12ごろ、つまり、3ヶ月の休診から通常診療体制にほぼ完全に戻れた時点から、HouananEMA(HEMA:方安庵環境医学アセス)構想の実行開始だった。一般社団法人「浜の家」の一時業として、独立採算をとりながら、震災復興の個人的支援を行う計画で、通常診療と切り離す必要があった。
○2013.1.21 まず被災地の診療所や、仮説住宅の一角での診療を考えたので、午後を休診として休みを増やし、現地入りの画策を開始。
○2013.2-5 休診または、移住覚悟の求人はあるが、最初から二股前提のアルバイト診療は、本拠地と現地との距離や交通手段、年齢ファクターなどあり非常に困難。福島、宮城と医師登録して探したが困難を極めた。 まずは福島空港周辺から。南相馬などを回ろうと思ったが、県の対応はとても不親切なものだった。登録はさせてもらいますが、特に必要としておりませんと最初にはっきり言われた。原因は、国の直接甚大災害の指定を受けたことらしかった。当時、ふくしま国際医療科学センター構想が国の予算で始動、4月から本格的に人員を募集していたので、その事務に電話してみたら、なんと同じ県の災害対策の部署につながって、同じ人物が出て、しかも、科学センターの構想をしらなかったようすで、なんとも釈然としない。福島在住の婦人科同級生からも、お金は国からでて潤沢なので、人もあつまり、個人ボランティアなぞ必要ない、とのことだった。(つづく)