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sent35-01203222150/宇宙のランドスケープ2 ......

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 さて、彼のランドスケープ。それは、我々の宇宙その物の風景だろうか。エネルギーも粒子もすべて配置され、気象の等圧線のように、エネルギーの等高線をもってあるべき位置にいろんな宇宙が存在している。それはまるで、大きな船舶と港の積み荷やクレーンのメガバースのように「適正な位置」を持っているのだろう。それらは、ヤウの多様空間に、表に重力が、裏に暗黒エネルギー(Darthと呼ぼう)が働いて、係留している。
 我々の「宇宙の降り立ちて留まれし点」は、いろんな粒子で構成されるが、他の領域ではすべてD-braneで構成されているかもしれない、とサスキンドさんは言っている。それらが、水を入れば、袋が下にさがり、振り子の端を動かして、スプーンの中の玉を螺旋に転がす、なんて昔からからくり機械というか、そんな、「ゴールドバーグの機械」のように、カラビヤウのミクロな空間から、非スーパービッグな空間まで、それもいびつで、コニフォールドと呼ばれる幾何的に、尖った点(起点?)をもつ10次元空間を作りだし、これを我々は「宇宙」と呼んでいるのだろうか。この図は、上記ブレーンの説明の英文のホームページにも図があるが、そんな気持ち悪い自在空間(とサスキンドは言ったわけではないが)の一つで、我々生命はなんと非常にデリケートな存在であり、その存在には、非常に非常に非常に例外的な条件を必要とするかを思い知らされる、と彼は言うが、それが本当なら誠にもっともである。でもって、そこ、つまり我々のココ!、住んでるところだが、ここは、重力も電磁力も質量依存適用空間であり、特に重力は、今より強すぎても弱すぎてもビッグクランチか霧散かと言う、そんなデリケートな存在なのにも関わらず、住人同士が核爆弾を抑止力と称して、尖閣だ魚釣だとツバつけあって喧嘩しているのだから、バカバカしいと言うか、本当にもったいないぜいたく者だなぁ、とつくづく思う。
 さて、このあたりで、カントールの数理論というものが登場する。なぜここで登場するかだが、ひとえに、空間なのに、鉛筆でかけないからに違いない。数学音痴、つまり貧弱な頭脳の持ち主で、逆に恰好つければ、空間認知の方が言語認知より優れる左利きの私も、3次元を越える、しかも巻き上げまで入れた空間次元は、とても頭で想像が出来ない。皆さん、どう?だから、計算!って怒っている向きもあるだろう。あえて、わかり難くするするつもりはない。M理論(上にあげた超弦理論の10次元には5つのパターンがあって、それを統合するものらしい)と言うものがある。その考え方では、紐理論の10次元に、1次元が加えられ11次元となるようだが、私の頭では想像することすら出来ない。理論物理学者は、そういう時、きっと数学で数字を遊ぶというか計算するんだろう。だからこそ、彼の数理論が宇宙のランドスケープで登場したと思っている。さてこのカントールさんは、偶数も奇数も無限個あるが、どちらも同じ大きさであると言う。偶数の列はすべての自然数の列と正確に一対一で対応させることができると言う。彼の理論では偶数の全体は、自然数の全体と同じ大きさである。どの数でもそれに順番を一対一で付けることができるからだろう。これは、なにか、無限大のチクワを想像させ、その表面にいろんな焼き模様のように紐が巻かれた、我々の10次元(9+1次元?)を想像させないだろうか。。。話は飛ぶが、 素数という考えがある。これに興味を持ち、計算をすることが趣味である同業の人も知っている。例えば、100までには、2、3、5、7、、、、93までと1とその数自体でしか割りきれない数が25個存在するが、この理論で行けば、素数もまた自然数の全体と同じ大きさになるのだろうか。数学苦手な私には、これも想定外の事ではある。
 さて、理解のためにも、ここで繰り返すと、我らがサスキンドさん、宇宙や銀河のランドスケープを今簡単に述べたような、紐理論やbrane(膜)理論、それに、数理論で表現しようとしているようだが、それらの誕生について、本の第5章で、量子力学的な表現なのか、宇宙のビッグバンの最中に密度の不均一さが生じ、それが銀河の形成を行ったと説明している箇所がある。宇宙の膨張は、すでに存在する真空エネルギー(暗黒エネルギー)で起こるが、我々の宇宙がランドスケープに沿って転がって、今の低いエネルギー位置まで来た時にそれは消えたらしい。
次に、我々の宇宙は地平線をもっているようだと言う。重力や質量や光のエネルギー意外の未知のエネルギー(真空または暗黒エネルギー)が存在するからだ。だから宇宙は膨張を続けているが、閉じた空間に浮かんでいるように表現される。
 さあどうですか、皆さん。これらの理論で、皆さんの頭のなかに我々の多様な宇宙が想像できましたか。もちろん私の説明が間違っているかもしれないのですが。。。だったらすまないことです。少なくとも、彼は結論的に、我々の宇宙がこんなに、穏やかで親しみやすいのはなぜか、を説明する要素について触れます。今のところ宇宙のそんな面を説明できるのは、重力、量子力学、統計と結びついた豊かなランドスケープだけであると表現するのです。けれど、知的な何者かが何らかの目的で宇宙を作ったことを否定するものではないとも言っており、アレ?って私は思うのです。神の存在を物理学者の常?で否定しつつも、排他しない(ウン? 排他しつつも否定しない?)ことに若干の違和感を覚えたのではありますが。
 神の存在。コロコロ話は変わるようで申し訳ないが、まあ、いつものことだから。さて自分の事になる。本当に去年は様々な事があった。宇宙について考えるのも私の強迫行為なのだろうと思う。その一連の流れのなかで、「想定外」と言う言葉があるとすれば、それは正に3.11震災だろう。私自身、去年4月から、しばらく休診することは決めていたから、事の起こった3月には逆に動きずらく、4月に入るとやや3週遅れとはなったが、早速現地を飛んだ。ながらく想定して地道に練習してきた個人ドクターヘリの活動をたった数日ながら行えた。このことは別のところで述べた。文脈と直接関係ないが、原発事故に関しては、想定外のはずがなく、おおきな津波や地震があればああなることは、子どもでもわかることだと付け加えたい。さて、わたしは小児科医で、信条が0から100才までの縦軸、というために、皆さんの良く言う「内科」も診るが、もともと考えの中に「内科も」という考えのないことは、自分の中でははっきりしている。これは決して屁理屈ではない。たとえば腎機能は、12才と80才は同じ程度ということで象徴されるように、人生という空間は時間にそって動く。だから自分は小児科のままで良い。そんな自分に納得もしていた。ところが、 2年前までは、いろいろ胃カメラなどチェックしていたのに、彼が退職するころから、定期胃カメラをしないでしまった知己の患者。そのような友人とも言えるような患者さんを食道癌で失ってしまった。いつのまにか、お互いにそういう事に降れず、「元気?」「絶好調!」というやりとりと目の暗黙のやりとりだけになっていた。私を信頼して定期的に来院をしていたのに。そういう人がなくなれば、それは自分の責任だと私は思う。とりきれない責任であるとも思う。30年来の古びた医療知識のリフレッシュ、という表向きの理由での去年の3ケ月の休診。広島大学総診での研修や宮古での活動。今後の為の人間ドック。そのために患者の皆さんにご迷惑をお掛けしたが、その真の目的と言うか、真空エネルギーは、そこにあったのだろうと認めざるを得ない。
 宇宙の存在や、細胞の不思議、遺伝や免疫、ロボット。自分の若い頃からの興味の対象ではあるのだが、還暦の今、患者さんの肉体、自分の肉体を通じて厳然たる有機体の死の問題、その恐怖に直面している。「医者」という職業を選んだ為に、この先、生きている間は、例の巻き上げられた時空のように、自分の後頭部というか、死の影を見続ける事となった訳だ。その営みは楽しくはない。ま、いいか、がなくなってしまったし。さながら強迫行為のように、「その何か」を追求し続けることが私の「生きること」であり、贖罪でもある。その軛を取り払うことが出きるのは神のみ。ねえサスキンドさん、そういうことでもあるよね。
 宇宙のランドスケープの中で生きること。有機体の死は、宇宙にとっての我々の霧散なのか。生きている皆さん、なくなった皆さん、それはもしかして別のバースにいるかもしれない皆さんであるかも。みなさんが本当に安らかでありますように願うのです。生死にかかわらず、皆さんもわたしも宇宙で存在すると信じて。それは、三陸で未だみつからない方々も含め、ドイツ語で申し訳ないですが、"Dasein von dem Fort(その先の存在とでも訳します)" とにかく、重くも、Einer Fortshritt(漸進)ですね、皆さん。(120311)
◯中心となる文献 宇宙のランドスケープ(The Cosmic Landscape):レオナルドサスキンド、林田陽子訳、1版2刷、日経BP社、2007、東京